底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

生きるは恥だが死ぬは罪

文章を書くのが趣味で、文章を仕事にしていると、文章の息抜きに文章を書くという状態に陥る。果たしてこれは息抜きになっているのだろうかと少し考えるけれど、実際に息抜きになっているという実感があるので、息抜きなのだろうと思う。

何故か、仕事の為の文章を書いている時と、趣味の文章を書いている時とでは、頭の使っている部分が違う。仕事の文章を書いていると額付近の頭蓋骨が固まっていくような、こうして思うままに文章を書いていると、それがほどけていくような。

ここしばらくは、小説もまた書くようになった。書き上がったらどこかに応募しようとも考えている。どうなるかわからないにしても、夢を見て腕を磨くことが許されたこの環境で、私は死ぬまでにできる限りのことをやり尽くしたいと願っている。なんとなく書ける物を書くだけというのは嫌だったので、書けない物を書く努力を、今、している。認められなければそれはそれで終わるだけで、それはそれで私の人生なのだろうと思う。ただ書き散らかすだけ書き散らかして私自身が散る結果になったとしても、何もせずに「私だってやればできるのに」と独り言ちるよりもいいと思う。

私はいつでも死にたいと思っている。殺されたいとも。実際に殺されたらそれはそれははらわたが煮えくり返る思いになり、「この恨み晴らさでおくべきか」と化けて出るとは思うのだけれど、健康で何の事件性もない今、時折こうしたことをこぼす。

死にたいのは、生きるのが辛いから。

殺されたいのは、死ぬのが罪だから。

だからいっそ、誰かに殺されてしまえば私は何の罪も負わずに楽になれるのにと考える。実際に殺されようものなら、断罪せんがばかりに相手を罵倒しながら死んでいくのだろうけれど。

今、それなりに平穏に暮らしていても、独り言は「死にたい」のままだ。実際に死にたいのではない。表現を和らげると「穴があったら入りたい」。そう、私は生きていることがただひたすらに恥ずかしいのだと思う。「生きるは恥だが死ぬは罪」、略して生き恥という言葉をブームに乗って考えもしたが、リアル社会でなかなかこのようなことを発現する場面に恵まれない。ここで発言したかった。誰かに言いたかった。

だからなんだというところで、チャットワークが止まらないのでそろそろ仕事に戻ろう。「チャットワークが止まらない」というのも、何やら語呂がいい。これをタイトルにして、チャットワークをよく使うIT系のサラリーマンがミスをした時の悲喜劇なんてどうだろうか。

ブラック会社モデルタイプのようなベンチャーIT企業が舞台で、他に仕事がなくその企業に就職をしてしまった青年が主人公で、ブラックなプロジェクトのリーダーを半強制的にやらされていて、無茶苦茶な指示の中、それでも何とか職務を全うしようと努力するも、クレームに繋がる仕事をしてしまい、チャットワークが鳴りやまず、恐怖からグループチャットを勝手に削除して逃亡するところから物語が始まり、「俺なんてどうせ駄目人間なんだ」と自死に走ろうとするも、逃亡先々で何故かITの問題に困っている人と出会い、自分の持っている知識と技術でそれらを解決し、「俺だってやればできるんだ。謝ろう」と感動的に立ち直り、会社に戻ってきて社長からの許しを得て再度勤めるものの、「許してもらった」という建前から社長に逆らえなくなり、更に仕事がブラック化していく。「もう勘弁してくれよ~」と言っている主人公の首がワイプで絞められて、めでたしめでたし。

こういうことを考えている時が、一番楽しい。

 

キーボードを買った話からの脱線実況中継

6時半頃から自分にとってどうでもよくないことをブログとしてだらだらと書き出して、7時36分、全てを削除した。

 

そもそも今こうしてブログを書き始めたのは新しく買ったキーボードを叩きたくて仕方がなくてなのだけれど、ずっと色んなことがあるおかげで、考えることとか言いたいこととかがたくさんあって、とりあえず書いたものがだいぶか重い。

 

さて、思い切ってどうでもいいことを書いてみようと思う。どうでもいいことを書くために思い切らなければならないというのもおかしな話だ。普段よく喋るくせに自分のことを話すことはあまりなく、人の相談を聞く方が多いので、一人で画面と向き合うと、どうしても話したいことがどっと溢れて来てしまう。

 

さて、このまま書き進めるとどうでも良くないことを書き始めてしまいそうなので、ここいらでどうでもいい方向に筆を進めよう。勿論、お前のことなんてどうでもいいと思う人にとって私にとってのどうでも良くないことはどうでもいいことなのだけれど、そして何故かそういう人に限って私のブログを熱心に読んでくださっているようなのだけれど、人とは面白い生き物だと思う。

 

冒頭の通り、キーボードを買った。知る人ぞ知るHHKBのワイヤレスキーボード。

 

3万円というのは私にとってかわいいお値段ではない。それでも欲しかった。リアルフォースは据え置きとして愛用するとして、もっとフレキシブルにポータブルに使えるキーボードが欲しかった。

 

というのも、先日、お盆休み頃、腱鞘炎寸前になったから。
仕事をたくさんいただき、趣味でもたくさんの文章を書いている。私はアイデア出しの時や文章をまとめる時は、ノートにペンというアナログアウトプットスタイルだ。余談だけれど、はさみとテープを使ったりもする。側から見ると文章を書いているようには見えないようで、周りの反応が面白い。「メモの量が異常な人」と思われているようで、私には基準がわからないまま異常な量のメモを日々作り続けている。

 

ペンとキーボード、両方で酷使を続けた右腕は疲れ果て、物がしっかりと握れなくなった。痛くはなかった。

スマホを落としに落としまくり、ガラスフィルムはバッキバキに割れた。先日、とうとう外れた。「ガラスフィルムってこんな風に外れるんだ!」という、新鮮な体験だった。

 

そして、ペンを落とした。書いている最中、ばたりとペンが力尽きるように倒れた。衝撃的だった。ペンが手からするりと落ちる瞬間は今でも目に焼き付いている。このまま握れなくなったらどうしようと思った。

 

せめて キーボード側の負担を軽くしようと、リアルフォースキーボード(据え置き型)を持ち歩いていたのだけれど、重いという問題に直面した。あと、コードがやたら長い。タブレットには使えない(なんとかしたら使えたのかもしれないけれど)ので、ノートパソコンも持ち歩かなければならない。

このノートパソコンが、とにかく重い。

 

重い物を担いでの移動が連日となり、体力がエンプティ。先日、帰宅した瞬間に寝た。翌日、起きれなかった。「これが限界か」と思った。最近元気過ぎて、私はきっと超人になったのだと自惚れていたけれど、人間だった。ただ、体力はエンプティでも病気になった訳でもなく、頭はぐるぐると回転していたので、やはり前の私とは違うなと思った。

 

今使っているノートパソコン、諸々の訴訟の慰謝料で買った物で、もう結構古い。けれど、まだまだ動いてくれる。

持ち歩くためにも買い換えようとしたのだけれど、今度買うのであればもっと自分の理想を詰め込んだ物に…(軽くて画面が大きくてキーボードそこそこ使いやすくてスペックもi7とまでは言わないけどi5ぐらいはあってofficeがパワポまで入っているやつで)と思って調べると20万ぐらいした。まだまだ小物の私にとって、20万円の衝動買いは辛い。

 

一度20万円の出費を考えてみると、キーボードの3万円は安く感じられた。完全にアレな心理状況だということはわかっている。けれど、3万円出費することで、仕事も趣味も全部賄えて、腱鞘炎防止にも役立つと思えば、高いとは思わなかった。なにより、実はずっと前から欲しかった。

 

これがめちゃくちゃいい。さくさくペアリングでiPadでがりがり文章が書ける。最高だ。とりあえずノートパソコンはまだいらないと思った。iPadとAndroidタブレットでまだまだやっていける気がする。

 

今、私には何でも話せる親友がいる。どれだけどんなことを話しても全部受け止めてさっくりと良い感じに骨のある返事をしてくれる、頼もしい親友。社会人になって友人と毎週会うなんてしたことがなかったけれど、今、毎週会っている。会おうと思えば会えるものなんだなと思った。

 

その親友に、キーボードの試運転も兼ねて長文LINEを送ってしまった。ここ数日、色んな出来事があったので、病みテイストの長文を。
親友は、丁寧に全部読み、骨太でありながら優しい素敵な意見を返してくれるのだ。恐らく、あのスマホのぽちぽち入力で。

 

朝起きてすぐに返事を書いてくれたのだろう。たった今、昨夜送った長文メッセージに対する返事が来た。今まで受けたことのない骨太で、優しいアンサーに、私は朝っぱらから泣いている。

私は19歳の時に初めて嬉し泣きを経験した。ここ最近はそれがなくて、そんなことってそんなにないのだろうと思っていたのだけれど、ここ1年ぐらいはしょっちゅうある。心が震えるほどの嬉しいことは、自分が世界と向き合えば意外とそこら中に転がっている。今、それを痛感している。

 

LINEに送るとだらだらとそれが日常になってしまいそうで怖くて、チャットワークから送ったのだけれど、いつでも送ってだなんて言われてしまって、こんな人がこの世に存在するのかと感動している。ここ1年は向き合うことが劇薬のように色んな辛いことがたくさんあったけれど、それに見合う以上の喜びも体験している。

 

私みたいなたちの人間が思うように思うまま行動することは、世間的に良しとされていないことが多い。常人ぶらなければ私は社会でやっていけないと思っている。例えそれが犯罪被害であろうが何であろうが、それは今の私が持つステータスだから。

実際それは間違っていないのだろうけれど、それを受け止めてそれを良しとする人がいてくれることの、何とありがたいことか。ありのままとは、こういう振る舞いのことなのだろう。

 

親友の話を書き始めたら本人からメッセージが来て思わず話が脱線してしまった(スマホのぽちぽち入力と入力した辺り)けれど、今こうしてブログを書き始めたのは、親友に迷惑を掛けたくないと思ったからだった。

ああ、でも、何だろう。自分が迷惑だと思うことを全部しっかりと受け止めてくれる人がいることは、本当に嬉しい。全てが許されるような気持ちになる。何を許されていなかったのかわからないけれど、多分私が私を許していないだけなのだと思うのだけれど、それを許してくれる人の存在は、本当に大きい。

いつか住む土地が離れたり、何かきっかけがあって会わなくなってしまったりするのかもしれない。それでも今、この親友と会える立場にいることが本当に嬉しい。

 

どうでもいいブログを書くはずが、全然どうでも良くなくなってしまった。社会人になって親友ができたという話でした。

元気

健康になった。

何をもってして健康となったと言っているかというと、とにかく体力がついた。以前の自分では絶対にできなかったことができるぐらい、体力がついた。

何か運動を始めた訳ではない。なのに、筋肉がやたらついた。初対面の方には「スポーツは何を?」と聞かれる。とりあえず「頑張って生きています」と適当に返事している。

生きてきて三十数年、こんなにも元気だと体感したことがこれまで一切なく、今、動き回れることが心底楽しい。ほとんど家にいない。かと言ってパリピにもなりきれない中途半端な人間ではあります。

二十代、ハラスメント職場で駄目にした肝臓が復活し、三十代、悪酔いと二日酔いがほぼゼロになった。お酒を飲むのが楽しい。かといってパリピにはなりきれない中途半端な人間ではあります。

去年まで、お酒を飲んだら夜中に「死のう」と思うほど二日酔いと悪酔いが酷かった。「死のう」と二日酔いで思っても悪酔いのせいで身動きが取れずそのまま眠るので今日まで生きながらえているという死に損ないの一種です。

なぜこんなに元気になったのか、理由は定かではない。ただ1つあるとすれば、去年の一連の流れのおかげで自分のやりたいことや生きたい道が明確になった。消化試合に負けた女が敗者復活戦にのし上がる。そんな感じでしょうか。何のこっちゃという感じですね。わかっていて書いています。

そんなことが書きたいのではない。元気になり過ぎたせいで筋肉のコリが酷いということが書きたくて、今日、ブログを開いた。

先日、少々遠方まで足を運ぶことになった。以前であればキャリーを使っていたが、「今の私は元気だ」という過信のもと、私は1週間弱の荷物とパソコン(リアルフォースキーボード付)を入れたカバン大を2つほど抱えていくことにした。小回りがきく、走れるという理由だった。

無事、その旅は終えた。予想以上の収穫を得て、うきうきで地元に帰った。

問題はこの後に起こった。

大きな荷物を2つ抱えてあっちやこっちや歩き回ったおかげで、身体がガタガタになった。どこも不具合がないのに動きが鈍い。ずっと地味に何だかしんどい。語彙力を失って説明すると「ヤバイ」。常に語彙力を求め求められる立場としては、たまに語彙力を失うターンも必要な休息期間だと最近は思う。

それはさておき、今でも体が地味にずっと痛い。旅に出たのは一週間ほど前。まだ疲れらしきものを引きずっている。

頭はスッキリとさえていて、アレをしようコレをしようと考えているのに、体がついてこない。さっき、もどかしさのあまり一人で悶えていたほどだ。

今しがた、とうとう養命酒の類に手を出した。養命酒と、ハーブの恵み。頓服のように飲むものではない、お酒のように飲むものではないとわかっている。

けれど、何故だろう。お酒に分類されるものを飲むと、体が軽くなるのだ。ようやっとスッキリした心身でパソコンを開き、ふとブログを開いてこれをしたためている。

このままこの健康を保つために「生きる」ということを追求している昨今なんだけれども、次の課題はきっとこれなんだろう。

「体がついてこれないほどやりたいことがあった時、どうするか」

とりあえずやった後で寝込むという無茶を、そろそろ年齢を加味してやめたいと思ってはいる。

わたしのおもう『記事の質』と『そのためのお金』

去年から世間的にも色々ありましたし、個人的に大きな生活の変化を受けましたし、色んな方々と接する機会もありましたし、「ライターとは」ということをよく考えるようになりました。

 

「ライター」という職業はなんだかんだと「自称」だなと感じています。私自身、ライティングの仕事を今でこそしっかりと引き受けてやっていっているものの、最初は「自称」だったし、それを自覚していましたし、そういう世界なんだと思います。

 

ライターと言っても色んなライターがいます。

コンテンツ更新のためにSEOの文章を書くWEBライターだったり、本や新聞の記事を書く紙面ライターだったり、ゴーストライターだったりと、本当にさまざまです。

 

その中で昨年はWEBライターが取沙汰されました。もう問題視ブームは過ぎた頃かと思いますが、「1円ライター」という言葉は燃えましたね。

 

ベテランライターの方と知り合い、1円ライターの話をすると衝撃を受けていました。しかし、「確かに今のライターは1円ライターから抜け出せずに困っている人が多い」と話してくださいました。

 

今の私はほぼほぼ、1円ライターではなくなりました。懇意にしていただいていたクライアント様からのお仕事のみ、現在でも1文字1円でやらせていただいているものもあります。しかしそれも、手持ちの仕事がなくなり次第終了させていただくことでお話が着いている形です。

 

1文字1円でも、それ以下だったことを経験していた私にとってはとてもありがたいお話しでありました。しかもこんな得体の知れない人間にそうしたお話をくださって、感謝してもし尽くせないとはこのことでしょう。

 

しかし、ライターとして独立してここまでやってきて、切に思います。

1文字1円では質を担保できません。いえ、きちんと言うと「担保するのが難しい」ですが。

 

『質』というものを求めた時、1文字を打つためにかかる時間はなかなかのものですから、1文字1円でお引き受けしていると、費やした労力と時間の割に「これだけしかもらえないのか」という結果になってしまうからです。

 

私が大金持ちで「こんなものただの道楽よ」と言える人間であればそれもできますが、そんな状態だったらもっと道楽じみた文章を書きたいです。そして私はそもそも大金持ちでもありませんから、そもそもそんなノリで仕事はできません。

 

もしくは「バイトだから1文字1円でもいいです」という感覚で働いていいのであれば、という感じです。質は度外視で流れ作業。自分の意思を介さずともお金になる。私の言う「バイトだから」はそんな感じです。

 

質を求めた時、記事は文字数換算できないのだというのが、今の私の考えているところです。ライターとクライアントがきちんと話し合って納得のいく落としどころを見つけるのが、双方にとって良い結果をもたらすのだろうと切に感じております。

 

今のライター仕事は、クライアントが一方的に決定した報酬にライターが乗っかる形でが決まる形式が多いでしょう。これが問題なのだと思います。

 

その価格でどこまでやるのかだけでなく、どこからやらないのかも自分の中で線引きしておくと、ライターとして肩の荷がおろせるのかなと思います。

 

「どこからやらない」

これは意外と、多くの人が明確になっていないように思います。そのため、「同じ価格でここまでやってよ」と言われて、「まぁやろうかな」と引き受けてしんどくなってしまい、急病で連絡が取れない羽目になるのです。

 

クライアントの「どこまでやってほしい」という要望だけでなく、ライター側の「どこからはやらない」という要望の明確化が、より良い記事を作っていくのではないでしょうか。

 

以下、余談。

 

 

 

あれ以来、ライターという仕事を続けてきて、恐ろしいほど欲が出てきました。

「もっと面白い文章が書きたい」

「ネットの情報よりもリアルな情報で記事が書きたい」

「人の考えを代弁したい」

「もっとお金という形で社会的に評価されたい」

「もっともっと色んな世界を見たい」

こんなことを考え出すと、とてもじゃありませんが1文字1円でお引き受けしているとパンクしてしまいます。

そんなこんなで、私は1年をかけて徐々に単価アップをしてきました。

今では1文字換算という仕事はほとんどなくなり「文字数に関わらず1万円」が定番となりました。足を使っての取材はなしで、資料等の読み込み(と言っても専門的過ぎるのは今のところありません)のみ、大幅リテイクは1回までといった流れです。

これが今の私にとって「質を担保できる価格」です。

これでも安い方だと思っています。また、この価格で販売しているのは定期的に仕事をいただいているクライアント様のみの設定でして、スポット注文だともう少しいただいております。要相談形式です。

この価格では、1万文字を超える記事を書くことはありません。今お付き合いさせていただいている企業様は本当に良い方ばかりで、そんな無茶な仕事を要求されることはありません。

与えられた情報を基に、どれだけ内容を深堀りし、記事として面白く仕上げ、他の人が書けない記事を書けるかということを売りにしています。

それでご納得いただけているということは、自分がそれに見合った仕事ができているということなのでしょう。そろそろ次の段階に移りたいなんて目論み始めております。私は善人ではなく、慈善事業で文章を書いている訳ではないのです。

 

 

1文字1円以下のアフィリエイトの仕事が、私にライターという活路を与えてくれました。私は今、この世界に立っているそれだけのことはとても楽しくて仕方がありません。知らないというだけのことがあんなにも私を苦しめていたのかと思うと、無知は罪だと感じます。ただ知って、足を踏み入れただけで、色んな人が私に手を差し伸べてくれました。

だから、今でも1円ライターの仕事にはとても感謝しています。あの頃の私と同じように、今でも助けられている人もいるのでしょう。だから全てなくなれとは思いません。

けれど、「質の高い記事」を担保するためのガイドラインとか、そういうものは必要なんだと思います。

そもそも質が高いとは何なのか。人によって大きく定義が異なります。

SEO知識がふんだんにぶち込まれていればいいとか、そうでなくてもコラムとして面白ければいいとか、自分のこだわりを反映してくれていなければ嫌だとか、本当に色んな人がいる。質の高さは十人十色です。

まぁ恐らくは、ランサーズやクラウドワークスなんかで記事を募集している人にとっての「質」は大体同じなんでしょう。SEO対策と物量、これに尽きるでしょう。そう考えると、その辺だけでもルール化したらいいのになんて心の片隅で思ったりしています。

なぜ片隅かって、私にはもう関係のない世界だから。私は善人ではないしお金持ちでもないから、自分の世界しか作れないし守れないんです。もしそっちの世界に戻らなければならない環境になれば、その時は私もライターをやめます。もう自分の好きなことで自分を苦しめたくありません。

話が戻りますが、1文字1円以下のアフィリエイトの仕事が、私にライターという活路を与えてくれました。思い返してみても、あの時がなかったら今はありませんでした。

1日24時間じゃ足りないとか、もっともっと書きたいとか、自分の未熟なところとか、自分のできているところとか、何もわかりませんでしたし見えませんでした。

健康になったおかげもあり、毎日早起きしています。早起きすると、時々ですが、信じられないぐらい筆が進むことがあります。起きた瞬間にペンを取り、今まで書けないと考えあぐねていたことをなかなかのスピードで書けることがあったりします。こうした現象ももしかしたら第六感的なアレなのではないかと思い付き、朝日を浴びながら自嘲したりしているのです。

だらだらともっと書こうかと思いましたが、とりあえず今はネガティブなことを書きたくない気分なので、ポジティブなラインで締めくくりたいと思います。

 

いんたーねっとの世界がもっと良くなってみんな幸せになりますように。

 

あなたは第六感を信じますか?

最近は目の前の現実に夢中になり過ぎて、本当にネットを見なくなった。
ブログやSNSはもちろんのこと、検索すら仕事以外ではほとんどしなくなった。テキストに「酔う」ような感覚が強くなってしまって、意図しないテキストはバールのようなもので頭を殴られるような奇妙な気持ちになる。本屋にも図書館にも長く居られなくなった。欲しい本を買うだけ買ってとっとと帰る。

これまでネットを介してコミュニケーションを取っていた友人たちも、定期的に「生きてる?」と、連絡してくれる。その度にTwitterを開いて「生きてる」と周知に努めたものの、持たなかった。あんなに楽しかったネットコミュニケーションが霞んで見える。もちろん、人そのものは好きなのだけれど、テキストで会話するよりも面と向かって話したいと望むようになった。しかし、このことで多くの方に心配をおかけしているので、本当にありがとうございます。
私の中で確実に何かが変化している。消えたのか、生まれたのか、まだわからないけれど、ただ何かが以前と違うことだけは確信している。

最近は仕事の取材でたくさんの方とお話しする機会に恵まれている。仕事という機会でなければ知り合えないような、個性豊かな方ばかり。その方々のお話を聞いていると、全く知らなかったことばかりで、世界がガンガンと広がっていく。ガンガンとドンドンと掘り進めると不思議と違う世界に繋がることがたくさんあって、本当に驚く。

最近で1番驚いているのは、第六感絡みの話だ。

ここから先はなかなかにスピリチュアルな話になるので、苦手な方は読み進めないことをおすすめします。

ここ1年の間に、自称・霊能者と、自称・エネルギーが見える人に会った。会う前は「何言ってるんだろう」ぐらいの気持ちでいた。

しかし、今となっては彼らは「本物」なのだと信じ切っている。

何故か。彼らは論ではなく証拠を見せてくれたから。

ブログ上では論しか語れず証拠を見せられないので、くどくどと彼らからどのような証拠を見せられたのかは割愛する。
ただ、彼らのおかげで私は生まれて初めて「健康」になった。健康になるとこんなにも飲食が楽しいのかと感動して以前より食べているが、太ることもない。むしろ痩せた。私が今まで常識だと感じてきたあらゆるものが彼らによって覆された。もし彼らが詐欺師であったとしても、私はこの体感を与えてくれたことに感謝しようと思う。

「とうとう宗教にはまったか」と思われるかもしれない。私も私みたいなやつがいたらそう思うだろう。
しかし私という立場から私の心境を語ると、彼らとはビジネス上でしか付き合いがない。ただ彼らから知識を得て、それをもって生活しているだけという状態。ツールとしてこうした知識を活用して健康的に生きていければというスタンスではある。今現在は。

ただしこれから何かしら宗教にはまる可能性はゼロではないなという自覚はある。こんなにも常識で語れない世界がこの世に点在していて、ただ少し袖を触れ合わせただけの彼らに私はあっさりと景色を変えられてしまった。今後、身も心も尽くしても良いと思える思想に出会うことがあるのかもしれない。
もしうっかりはまったら、ここで布教活動でもしようと思う。

私が彼らの話を聞いていて面白いと思ったのは、似た世界(と言ったら怒られるかもしれないけれど)でありながら互いを否定し合っていること。

そのくせ、語っている知識は使っている単語が違えど原理がとても似ていて、恐らく同じものを見て使っているのだろうということ。

「エネルギーの人」は、エネルギーを活用して引き寄せの法則を使い、人生を豊かにしたという。
「霊能者」は、神の波動を用いてあらゆる病気を治してきた経歴があり、ビジネスマンとしても大きな成功を経て現在独立したという状態。

「エネルギー」と「波動」。似て非なるものなのか、それとも言葉が違うだけなのか。私は後者だと感じている。

それだけではない。
「霊能者」に教えてもらった「仏教」には、引き寄せの法則と同じ思想の表現だと思われるの曼荼羅があった。

先に「エネルギーの人」から引き寄せの話を聞いており、その後に仏教と霊学の話を聞いた。背筋がぞっとして、とても楽しくなった。

仏教には金剛界と胎蔵界という考え方と、それを表した曼荼羅がある。胎蔵界は人の内面、金剛界は世界を表したものらしい。

「霊能者」いわく。胎蔵界で生まれた願いが金剛界に出ていき、世界に影響して願いを叶えるのだという。

「エネルギーの人」いわく。引き寄せはただ宇宙の法則に従って願うだけ。そうすれば自然と願いが具現化するのだという。

まぁ、私は話を聞いただけなので、詳しいことはあまり知らない。

けれど、この合致する思想の理屈に、世界の真理に似たものを感じて、身震いした。思わず饒舌になって話を聞き出すと、2人とも得意気に語ってくれた。超能力者も人なのだと顔が綻んだ。

少しだけこうした世界を体験し、健康になり、私は最近では第六感はあるものなのだと考えるようになった。

こんな思想は、理解されないでしょう。どれだけ言葉を尽くしても限界がある。体感しなければわからない。そんな世界だとわかっている。だから私は理解して欲しいと思わなくなった。自らの心身で感じた確信こそが、自らの人生を良くする糧になるのだと思うようになった。
それを遠くの他人に理解してもらうよりも、隣人に笑ってもらえればいいと切に感じている。

ただ、私はライターなので、彼らの代弁をしなければならない。そのために、言葉を尽くす。
私という立場から語る言葉と、彼らという立場から放たれる代弁とでは、説得力が全く違う。
言葉とは「誰が話すか」ということもとても大事になる。
この黒子仕事が、私はとても楽しい。こうして脳の中をガンガン掘り進めて色んな世界を繋げて見える景色はどんなものなのだろうかと、今から死ぬその瞬間が楽しみだ。

理解できない

そう思われることが怖かったんだと思う。

だから私は現実世界でも非現実世界でも肯定を求めて言い訳をして、優しい人が悟って与えてくれるそれらを有難くいただいて満足して、すぐにおなかが空いてもう一度それを求めて。魚の釣り方を求めているつもりで餌を与えられて回遊するだけの魚になっていたように思う。

今は、理解されなくて当たり前なのだと思っている。

だって私は恐らく一般的ではない。人として、人生として、あらゆる意味で一般的ではない。わかっていたつもりで、腑に落ちていなかった。だからそれを否定して一般的だと思われたかった。だから私は必死になって肯定を求めた。

けれど今は、一般的でなくていい。一般的でない私を受け入れてくれる世界と社会と人が私を取り巻いてくれているから。

私は私の腑に落ちた「理解できない」と言われるだろうことをこれからも書き散らし続けようと思う。

去年の今頃、私は底辺ネットライターだった。ライターと名乗ることがおこがましいのではないかと思うほどの底辺だった。

どんな世界でも、底の世界は暗くて冷たい。それはもう、狂って泣き叫びたくなるほどに。泣き叫んだ時に初めて上を見て、自分の手足でそこから這い出ることができることを知った。

自分ができていることの何に価値があって何に価値がないのかも見失っていた。やりたいという気持ちとか、そんな類のものしかなかった。それが市場に出ていくらの価値が付くのかわからなかった。形のないものに値段を付けるのは、本当に難しい。

けれど、今となっては思う。難しいと思っているうちは買い叩かれる。

「難しいなら代わりにやってあげるよ」だなんて言う人が私に値段を付ける。難しいからと思考停止していたら、それを呑み込むしかできない。

難しいからこそ考える。他人の文章を読む。私の文章を読む。私の文章を読んだ人の目を見る。感想を聞く。その反応で、自分の価値を自分で見定める。そうしていくうちに確信した。私の文章にはそこそこの価値があるのだと。

そうして、仕事を取捨選択できるまでになった。なんて贅沢なんだろう。私は喜びに打ちひしがれて死にそうになって、こんなところで死んでたまるものかと歯を食いしばる。そしてもっともっと価値を付けたくて、文章についてたくさんのことを考えるようになった。たくさんの文章を書くようになった。師と呼べる人とも出会えた。

そんなこんなをして、今では堂々とライターを名乗って名刺を配り歩くようになった。自分で考えた自分のキャッチコピーを書いた名刺。ほとんどの人はそのキャッチコピーに食いついてくれて、話題が広がる。「さすがライターさん」だなんて言われると、腹の底から喜びらしきものが湧き上がる。

最近では名刺にキャッチコピーを付ける仕事も引き受けるようになった。これがなかなか好評な上に、楽しい。期待に応えなければいけないプレッシャーはあるにしろ、期待に応えられた時の喜びは半端ない。

 

 

辛いことが全くないわけではない。むしろ、文章の仕事を続けていくということは一生勉強をし続けますと宣言するようなもので、知らないことわからないこと、拙いこと満たないことにぶつかって苦しみ続けなければいけない。それでも私は泣きながら身震いしてしまうような変態なので、この道が合っているのかもしれない。

諦めていた世界が広がって、あの頃のように世界が輝いて見える。勿論、また沼に沈むのかもしれないとも思う。何度も何度も沼に落ちてその度にもがいてきた。人生のエンディングは死ぬ時だから、どれだけ素晴らしいエンドロールらしきものが頭をよぎってもそれはオープニングでしかない。これからも多分、沼に落ちたり星を見上げたりして、生きていくのだろうと思う。

それでもいいやと開き直れるのは、何があってもブログのネタにして笑ってやろうと思えているのも1つの理由。私は善人ではないので、修羅場であろうと面白い話が好きだ。だからどんな修羅場だって面白い話に昇華してやろうと思える。そう思えると、辛くても笑える。今は目の前の事が何もかも面白くて仕方がない。生きていてよかったと思えるほどに。

 

核心に触れないポエムを公開して悦に浸る変態

夢の中で気付くことがある。

ここで言う「夢」は起きて見る未来の夢ではない。眠って見る、脳内を探るような幻のようなあの「夢」のこと。

起きている間、どれだけ言葉を探しても、心を探っても、見えないものがある。それらのほとんどは他人のことではなく自己のこと。自分のことがわからないなんてあり得ないと考えていた時期もあった。けれどその実、己とは最も遠い存在で、具合の悪さですら自分のことより他人のことの方がよくわかる。

もっとずっと前からこんな哲学臭い文学臭い何か気取ったような文章を書いていたと思っていたけれど、改めてブログを読み返してみるともっとカジュアルで現実の匂いがする文章だって溢れていた。後、不気味で気持ちの悪い文章も多かった。自分で書いていることなのに、思っているよりも自分で自分が見えていない。

よくよく思いだしてみれば、私は一度こうした自分のおどろおどろしい文体に嫌気が差して、もっともっと馴染みの良い八方美人気取りの文章を書くことを意識するようになったのだった。たしか、社会人になってからのことだ。たしか、自分が嫌いで仕方がなかった時期だ。何も成し遂げられないくせに全能感だけに満ちていたあの頃。私は自分を捨てることでもっともっと人から愛されたかった。いびられたり殴られたりはもうたくさんだった。こうした気取りを捨てることで、もっともっと人に愛されたかった。確か、多分。

けれど実際はどんな文体で文章を書いていようと、どんなスタンスで生きていようと、愛してくれる人は愛してくれるし、そうでない人はそうあるだけ。愛してくれたとしてもいつかその愛が摩耗し底尽きる時もあれば、何もなかったそこから豊かな感情が生い茂る時もある。それをどこまで認めて割り切って生きられるかがその人を「強く」見せかけるのかが決まるように思える。

私は人に強く見られたくて割り切ったふりをして長い時間を生きてきたけれど、それは「君はひとりでも生きていけるから大丈夫だよね」という評価に繋がった。ので、あまり強く見せかけて生きない方が良いのだと今は思う。強く見せかけるぐらいなら、実際に強くならなければならないのだろう。そうでなければ自分の首を絞めて呼吸ができなくなってしまうだけ。

今日、夢を見た。自分で探していた自分を見つける夢を。

ここ数日、調子が悪いと言えばいいのか、理想通りに物事を進めることができなくてもがいていた。そうは言っても大きな問題が起こるわけでもない。未来を思い描いた時、私が今歩いている道は私が目指している未来に辿り着ける可能性を秘めている道なのだという確信すらある。体調も良い。底辺健康法とは何だったのか、とすら思うほど。必死になって健康を求めていた時よりも、健康なんてどうでも良くなって、それよりも心が焦がれる物を追い求めている今の方がよっぽど健康だ。焦がれれば焦がれるほど逃げるのかと考えると、少し怖くなる。どうやって理想を求めて行けば良いのかと。

それはさておき、調子が悪い。肉体が精神について行かないような。肉体と精神が別の方向を目指して歩いて行こうとするような。私という人間が引き裂かれそうになっているような。昔は、精神が私の本体であって肉体なぞはどうでも良いものだと考えていた頃もあるけれど、今は肉体と精神のふたつでひとりの人間で、私はどちらが欠けても心地良く生きられないと思う。もしかすると本当に引き千切れてしまえばどうでも良くなり、それぞれ心地良く生きていけるのかもしれない。けれど、引き千切る手段を知らない私にとって、それぞれが別の方向に私という者を引っ張っていこうとすることは、とても苦しいことだ。

そんな私の心身をひとつにまとめる方法を、私をなだめる方法を探していた。それを、今日、夢の中で見つけた。目が覚めた時、とても不思議な気持ちだった。

こんなポエムのような核心に触れない文章をなぜいちいちブログで公開するのだろう私は、と思いもする。けれど日の目を見ないポエムよりも、踏みつけられても誰かの目に触れるポエムの方がよっぽど意味があるのではないかと、最近思う。

こうした文章は何も考えずとも私の頭の中のもやを表現すればいいだけなので、とてもラクに書けて、とても心がラクになる。対価を得ようとして書く文章は下地作りがどうしても必要になる。それが要らない。すぐに文章として書き出せる。私にとってこうして文章を書くことは、歌うようなことだ。頭の中にたゆたっているもやを文章にして吐き出している。

最近は人に見せない文章をたくさん書くようになったけれど、だからこそ思う。私は人に文章を見られて気持ちが良くなってしまうタイプの変態なのだと。

自分が変態だと認めてしまうことはなぜかひどく気持ちが良い。昔は自分のことを変態だと公表している人は一体何を考えているのだろうかと感じていた時期もあったけれど、なるほどこういうことなのかと思う。変態だと自他共に認められる世界は、無理矢理真っ当であろう世界に自分を歪めてこじつけて生きていくよりもずっとラクだ。ラク=幸せではないにしろ、全くの不幸からは抜け出せるのではないだろうか。

こんなどうでもいいことを考えながら、日々過ごしている。こうしてキーボードを叩く時は歌うような、得意な楽器を弾くような気持ちで、とても心が清々しい。