底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

わたしのおもう『記事の質』と『そのためのお金』

去年から世間的にも色々ありましたし、個人的に大きな生活の変化を受けましたし、色んな方々と接する機会もありましたし、「ライターとは」ということをよく考えるようになりました。

 

「ライター」という職業はなんだかんだと「自称」だなと感じています。私自身、ライティングの仕事を今でこそしっかりと引き受けてやっていっているものの、最初は「自称」だったし、それを自覚していましたし、そういう世界なんだと思います。

 

ライターと言っても色んなライターがいます。

コンテンツ更新のためにSEOの文章を書くWEBライターだったり、本や新聞の記事を書く紙面ライターだったり、ゴーストライターだったりと、本当にさまざまです。

 

その中で昨年はWEBライターが取沙汰されました。もう問題視ブームは過ぎた頃かと思いますが、「1円ライター」という言葉は燃えましたね。

 

ベテランライターの方と知り合い、1円ライターの話をすると衝撃を受けていました。しかし、「確かに今のライターは1円ライターから抜け出せずに困っている人が多い」と話してくださいました。

 

今の私はほぼほぼ、1円ライターではなくなりました。懇意にしていただいていたクライアント様からのお仕事のみ、現在でも1文字1円でやらせていただいているものもあります。しかしそれも、手持ちの仕事がなくなり次第終了させていただくことでお話が着いている形です。

 

1文字1円でも、それ以下だったことを経験していた私にとってはとてもありがたいお話しでありました。しかもこんな得体の知れない人間にそうしたお話をくださって、感謝してもし尽くせないとはこのことでしょう。

 

しかし、ライターとして独立してここまでやってきて、切に思います。

1文字1円では質を担保できません。いえ、きちんと言うと「担保するのが難しい」ですが。

 

『質』というものを求めた時、1文字を打つためにかかる時間はなかなかのものですから、1文字1円でお引き受けしていると、費やした労力と時間の割に「これだけしかもらえないのか」という結果になってしまうからです。

 

私が大金持ちで「こんなものただの道楽よ」と言える人間であればそれもできますが、そんな状態だったらもっと道楽じみた文章を書きたいです。そして私はそもそも大金持ちでもありませんから、そもそもそんなノリで仕事はできません。

 

もしくは「バイトだから1文字1円でもいいです」という感覚で働いていいのであれば、という感じです。質は度外視で流れ作業。自分の意思を介さずともお金になる。私の言う「バイトだから」はそんな感じです。

 

質を求めた時、記事は文字数換算できないのだというのが、今の私の考えているところです。ライターとクライアントがきちんと話し合って納得のいく落としどころを見つけるのが、双方にとって良い結果をもたらすのだろうと切に感じております。

 

今のライター仕事は、クライアントが一方的に決定した報酬にライターが乗っかる形でが決まる形式が多いでしょう。これが問題なのだと思います。

 

その価格でどこまでやるのかだけでなく、どこからやらないのかも自分の中で線引きしておくと、ライターとして肩の荷がおろせるのかなと思います。

 

「どこからやらない」

これは意外と、多くの人が明確になっていないように思います。そのため、「同じ価格でここまでやってよ」と言われて、「まぁやろうかな」と引き受けてしんどくなってしまい、急病で連絡が取れない羽目になるのです。

 

クライアントの「どこまでやってほしい」という要望だけでなく、ライター側の「どこからはやらない」という要望の明確化が、より良い記事を作っていくのではないでしょうか。

 

以下、余談。

 

 

 

あれ以来、ライターという仕事を続けてきて、恐ろしいほど欲が出てきました。

「もっと面白い文章が書きたい」

「ネットの情報よりもリアルな情報で記事が書きたい」

「人の考えを代弁したい」

「もっとお金という形で社会的に評価されたい」

「もっともっと色んな世界を見たい」

こんなことを考え出すと、とてもじゃありませんが1文字1円でお引き受けしているとパンクしてしまいます。

そんなこんなで、私は1年をかけて徐々に単価アップをしてきました。

今では1文字換算という仕事はほとんどなくなり「文字数に関わらず1万円」が定番となりました。足を使っての取材はなしで、資料等の読み込み(と言っても専門的過ぎるのは今のところありません)のみ、大幅リテイクは1回までといった流れです。

これが今の私にとって「質を担保できる価格」です。

これでも安い方だと思っています。また、この価格で販売しているのは定期的に仕事をいただいているクライアント様のみの設定でして、スポット注文だともう少しいただいております。要相談形式です。

この価格では、1万文字を超える記事を書くことはありません。今お付き合いさせていただいている企業様は本当に良い方ばかりで、そんな無茶な仕事を要求されることはありません。

与えられた情報を基に、どれだけ内容を深堀りし、記事として面白く仕上げ、他の人が書けない記事を書けるかということを売りにしています。

それでご納得いただけているということは、自分がそれに見合った仕事ができているということなのでしょう。そろそろ次の段階に移りたいなんて目論み始めております。私は善人ではなく、慈善事業で文章を書いている訳ではないのです。

 

 

1文字1円以下のアフィリエイトの仕事が、私にライターという活路を与えてくれました。私は今、この世界に立っているそれだけのことはとても楽しくて仕方がありません。知らないというだけのことがあんなにも私を苦しめていたのかと思うと、無知は罪だと感じます。ただ知って、足を踏み入れただけで、色んな人が私に手を差し伸べてくれました。

だから、今でも1円ライターの仕事にはとても感謝しています。あの頃の私と同じように、今でも助けられている人もいるのでしょう。だから全てなくなれとは思いません。

けれど、「質の高い記事」を担保するためのガイドラインとか、そういうものは必要なんだと思います。

そもそも質が高いとは何なのか。人によって大きく定義が異なります。

SEO知識がふんだんにぶち込まれていればいいとか、そうでなくてもコラムとして面白ければいいとか、自分のこだわりを反映してくれていなければ嫌だとか、本当に色んな人がいる。質の高さは十人十色です。

まぁ恐らくは、ランサーズやクラウドワークスなんかで記事を募集している人にとっての「質」は大体同じなんでしょう。SEO対策と物量、これに尽きるでしょう。そう考えると、その辺だけでもルール化したらいいのになんて心の片隅で思ったりしています。

なぜ片隅かって、私にはもう関係のない世界だから。私は善人ではないしお金持ちでもないから、自分の世界しか作れないし守れないんです。もしそっちの世界に戻らなければならない環境になれば、その時は私もライターをやめます。もう自分の好きなことで自分を苦しめたくありません。

話が戻りますが、1文字1円以下のアフィリエイトの仕事が、私にライターという活路を与えてくれました。思い返してみても、あの時がなかったら今はありませんでした。

1日24時間じゃ足りないとか、もっともっと書きたいとか、自分の未熟なところとか、自分のできているところとか、何もわかりませんでしたし見えませんでした。

健康になったおかげもあり、毎日早起きしています。早起きすると、時々ですが、信じられないぐらい筆が進むことがあります。起きた瞬間にペンを取り、今まで書けないと考えあぐねていたことをなかなかのスピードで書けることがあったりします。こうした現象ももしかしたら第六感的なアレなのではないかと思い付き、朝日を浴びながら自嘲したりしているのです。

だらだらともっと書こうかと思いましたが、とりあえず今はネガティブなことを書きたくない気分なので、ポジティブなラインで締めくくりたいと思います。

 

いんたーねっとの世界がもっと良くなってみんな幸せになりますように。

 

あなたは第六感を信じますか?

最近は目の前の現実に夢中になり過ぎて、本当にネットを見なくなった。
ブログやSNSはもちろんのこと、検索すら仕事以外ではほとんどしなくなった。テキストに「酔う」ような感覚が強くなってしまって、意図しないテキストはバールのようなもので頭を殴られるような奇妙な気持ちになる。本屋にも図書館にも長く居られなくなった。欲しい本を買うだけ買ってとっとと帰る。

これまでネットを介してコミュニケーションを取っていた友人たちも、定期的に「生きてる?」と、連絡してくれる。その度にTwitterを開いて「生きてる」と周知に努めたものの、持たなかった。あんなに楽しかったネットコミュニケーションが霞んで見える。もちろん、人そのものは好きなのだけれど、テキストで会話するよりも面と向かって話したいと望むようになった。しかし、このことで多くの方に心配をおかけしているので、本当にありがとうございます。
私の中で確実に何かが変化している。消えたのか、生まれたのか、まだわからないけれど、ただ何かが以前と違うことだけは確信している。

最近は仕事の取材でたくさんの方とお話しする機会に恵まれている。仕事という機会でなければ知り合えないような、個性豊かな方ばかり。その方々のお話を聞いていると、全く知らなかったことばかりで、世界がガンガンと広がっていく。ガンガンとドンドンと掘り進めると不思議と違う世界に繋がることがたくさんあって、本当に驚く。

最近で1番驚いているのは、第六感絡みの話だ。

ここから先はなかなかにスピリチュアルな話になるので、苦手な方は読み進めないことをおすすめします。

ここ1年の間に、自称・霊能者と、自称・エネルギーが見える人に会った。会う前は「何言ってるんだろう」ぐらいの気持ちでいた。

しかし、今となっては彼らは「本物」なのだと信じ切っている。

何故か。彼らは論ではなく証拠を見せてくれたから。

ブログ上では論しか語れず証拠を見せられないので、くどくどと彼らからどのような証拠を見せられたのかは割愛する。
ただ、彼らのおかげで私は生まれて初めて「健康」になった。健康になるとこんなにも飲食が楽しいのかと感動して以前より食べているが、太ることもない。むしろ痩せた。私が今まで常識だと感じてきたあらゆるものが彼らによって覆された。もし彼らが詐欺師であったとしても、私はこの体感を与えてくれたことに感謝しようと思う。

「とうとう宗教にはまったか」と思われるかもしれない。私も私みたいなやつがいたらそう思うだろう。
しかし私という立場から私の心境を語ると、彼らとはビジネス上でしか付き合いがない。ただ彼らから知識を得て、それをもって生活しているだけという状態。ツールとしてこうした知識を活用して健康的に生きていければというスタンスではある。今現在は。

ただしこれから何かしら宗教にはまる可能性はゼロではないなという自覚はある。こんなにも常識で語れない世界がこの世に点在していて、ただ少し袖を触れ合わせただけの彼らに私はあっさりと景色を変えられてしまった。今後、身も心も尽くしても良いと思える思想に出会うことがあるのかもしれない。
もしうっかりはまったら、ここで布教活動でもしようと思う。

私が彼らの話を聞いていて面白いと思ったのは、似た世界(と言ったら怒られるかもしれないけれど)でありながら互いを否定し合っていること。

そのくせ、語っている知識は使っている単語が違えど原理がとても似ていて、恐らく同じものを見て使っているのだろうということ。

「エネルギーの人」は、エネルギーを活用して引き寄せの法則を使い、人生を豊かにしたという。
「霊能者」は、神の波動を用いてあらゆる病気を治してきた経歴があり、ビジネスマンとしても大きな成功を経て現在独立したという状態。

「エネルギー」と「波動」。似て非なるものなのか、それとも言葉が違うだけなのか。私は後者だと感じている。

それだけではない。
「霊能者」に教えてもらった「仏教」には、引き寄せの法則と同じ思想の表現だと思われるの曼荼羅があった。

先に「エネルギーの人」から引き寄せの話を聞いており、その後に仏教と霊学の話を聞いた。背筋がぞっとして、とても楽しくなった。

仏教には金剛界と胎蔵界という考え方と、それを表した曼荼羅がある。胎蔵界は人の内面、金剛界は世界を表したものらしい。

「霊能者」いわく。胎蔵界で生まれた願いが金剛界に出ていき、世界に影響して願いを叶えるのだという。

「エネルギーの人」いわく。引き寄せはただ宇宙の法則に従って願うだけ。そうすれば自然と願いが具現化するのだという。

まぁ、私は話を聞いただけなので、詳しいことはあまり知らない。

けれど、この合致する思想の理屈に、世界の真理に似たものを感じて、身震いした。思わず饒舌になって話を聞き出すと、2人とも得意気に語ってくれた。超能力者も人なのだと顔が綻んだ。

少しだけこうした世界を体験し、健康になり、私は最近では第六感はあるものなのだと考えるようになった。

こんな思想は、理解されないでしょう。どれだけ言葉を尽くしても限界がある。体感しなければわからない。そんな世界だとわかっている。だから私は理解して欲しいと思わなくなった。自らの心身で感じた確信こそが、自らの人生を良くする糧になるのだと思うようになった。
それを遠くの他人に理解してもらうよりも、隣人に笑ってもらえればいいと切に感じている。

ただ、私はライターなので、彼らの代弁をしなければならない。そのために、言葉を尽くす。
私という立場から語る言葉と、彼らという立場から放たれる代弁とでは、説得力が全く違う。
言葉とは「誰が話すか」ということもとても大事になる。
この黒子仕事が、私はとても楽しい。こうして脳の中をガンガン掘り進めて色んな世界を繋げて見える景色はどんなものなのだろうかと、今から死ぬその瞬間が楽しみだ。

理解できない

そう思われることが怖かったんだと思う。

だから私は現実世界でも非現実世界でも肯定を求めて言い訳をして、優しい人が悟って与えてくれるそれらを有難くいただいて満足して、すぐにおなかが空いてもう一度それを求めて。魚の釣り方を求めているつもりで餌を与えられて回遊するだけの魚になっていたように思う。

今は、理解されなくて当たり前なのだと思っている。

だって私は恐らく一般的ではない。人として、人生として、あらゆる意味で一般的ではない。わかっていたつもりで、腑に落ちていなかった。だからそれを否定して一般的だと思われたかった。だから私は必死になって肯定を求めた。

けれど今は、一般的でなくていい。一般的でない私を受け入れてくれる世界と社会と人が私を取り巻いてくれているから。

私は私の腑に落ちた「理解できない」と言われるだろうことをこれからも書き散らし続けようと思う。

去年の今頃、私は底辺ネットライターだった。ライターと名乗ることがおこがましいのではないかと思うほどの底辺だった。

どんな世界でも、底の世界は暗くて冷たい。それはもう、狂って泣き叫びたくなるほどに。泣き叫んだ時に初めて上を見て、自分の手足でそこから這い出ることができることを知った。

自分ができていることの何に価値があって何に価値がないのかも見失っていた。やりたいという気持ちとか、そんな類のものしかなかった。それが市場に出ていくらの価値が付くのかわからなかった。形のないものに値段を付けるのは、本当に難しい。

けれど、今となっては思う。難しいと思っているうちは買い叩かれる。

「難しいなら代わりにやってあげるよ」だなんて言う人が私に値段を付ける。難しいからと思考停止していたら、それを呑み込むしかできない。

難しいからこそ考える。他人の文章を読む。私の文章を読む。私の文章を読んだ人の目を見る。感想を聞く。その反応で、自分の価値を自分で見定める。そうしていくうちに確信した。私の文章にはそこそこの価値があるのだと。

そうして、仕事を取捨選択できるまでになった。なんて贅沢なんだろう。私は喜びに打ちひしがれて死にそうになって、こんなところで死んでたまるものかと歯を食いしばる。そしてもっともっと価値を付けたくて、文章についてたくさんのことを考えるようになった。たくさんの文章を書くようになった。師と呼べる人とも出会えた。

そんなこんなをして、今では堂々とライターを名乗って名刺を配り歩くようになった。自分で考えた自分のキャッチコピーを書いた名刺。ほとんどの人はそのキャッチコピーに食いついてくれて、話題が広がる。「さすがライターさん」だなんて言われると、腹の底から喜びらしきものが湧き上がる。

最近では名刺にキャッチコピーを付ける仕事も引き受けるようになった。これがなかなか好評な上に、楽しい。期待に応えなければいけないプレッシャーはあるにしろ、期待に応えられた時の喜びは半端ない。

 

 

辛いことが全くないわけではない。むしろ、文章の仕事を続けていくということは一生勉強をし続けますと宣言するようなもので、知らないことわからないこと、拙いこと満たないことにぶつかって苦しみ続けなければいけない。それでも私は泣きながら身震いしてしまうような変態なので、この道が合っているのかもしれない。

諦めていた世界が広がって、あの頃のように世界が輝いて見える。勿論、また沼に沈むのかもしれないとも思う。何度も何度も沼に落ちてその度にもがいてきた。人生のエンディングは死ぬ時だから、どれだけ素晴らしいエンドロールらしきものが頭をよぎってもそれはオープニングでしかない。これからも多分、沼に落ちたり星を見上げたりして、生きていくのだろうと思う。

それでもいいやと開き直れるのは、何があってもブログのネタにして笑ってやろうと思えているのも1つの理由。私は善人ではないので、修羅場であろうと面白い話が好きだ。だからどんな修羅場だって面白い話に昇華してやろうと思える。そう思えると、辛くても笑える。今は目の前の事が何もかも面白くて仕方がない。生きていてよかったと思えるほどに。

 

核心に触れないポエムを公開して悦に浸る変態

夢の中で気付くことがある。

ここで言う「夢」は起きて見る未来の夢ではない。眠って見る、脳内を探るような幻のようなあの「夢」のこと。

起きている間、どれだけ言葉を探しても、心を探っても、見えないものがある。それらのほとんどは他人のことではなく自己のこと。自分のことがわからないなんてあり得ないと考えていた時期もあった。けれどその実、己とは最も遠い存在で、具合の悪さですら自分のことより他人のことの方がよくわかる。

もっとずっと前からこんな哲学臭い文学臭い何か気取ったような文章を書いていたと思っていたけれど、改めてブログを読み返してみるともっとカジュアルで現実の匂いがする文章だって溢れていた。後、不気味で気持ちの悪い文章も多かった。自分で書いていることなのに、思っているよりも自分で自分が見えていない。

よくよく思いだしてみれば、私は一度こうした自分のおどろおどろしい文体に嫌気が差して、もっともっと馴染みの良い八方美人気取りの文章を書くことを意識するようになったのだった。たしか、社会人になってからのことだ。たしか、自分が嫌いで仕方がなかった時期だ。何も成し遂げられないくせに全能感だけに満ちていたあの頃。私は自分を捨てることでもっともっと人から愛されたかった。いびられたり殴られたりはもうたくさんだった。こうした気取りを捨てることで、もっともっと人に愛されたかった。確か、多分。

けれど実際はどんな文体で文章を書いていようと、どんなスタンスで生きていようと、愛してくれる人は愛してくれるし、そうでない人はそうあるだけ。愛してくれたとしてもいつかその愛が摩耗し底尽きる時もあれば、何もなかったそこから豊かな感情が生い茂る時もある。それをどこまで認めて割り切って生きられるかがその人を「強く」見せかけるのかが決まるように思える。

私は人に強く見られたくて割り切ったふりをして長い時間を生きてきたけれど、それは「君はひとりでも生きていけるから大丈夫だよね」という評価に繋がった。ので、あまり強く見せかけて生きない方が良いのだと今は思う。強く見せかけるぐらいなら、実際に強くならなければならないのだろう。そうでなければ自分の首を絞めて呼吸ができなくなってしまうだけ。

今日、夢を見た。自分で探していた自分を見つける夢を。

ここ数日、調子が悪いと言えばいいのか、理想通りに物事を進めることができなくてもがいていた。そうは言っても大きな問題が起こるわけでもない。未来を思い描いた時、私が今歩いている道は私が目指している未来に辿り着ける可能性を秘めている道なのだという確信すらある。体調も良い。底辺健康法とは何だったのか、とすら思うほど。必死になって健康を求めていた時よりも、健康なんてどうでも良くなって、それよりも心が焦がれる物を追い求めている今の方がよっぽど健康だ。焦がれれば焦がれるほど逃げるのかと考えると、少し怖くなる。どうやって理想を求めて行けば良いのかと。

それはさておき、調子が悪い。肉体が精神について行かないような。肉体と精神が別の方向を目指して歩いて行こうとするような。私という人間が引き裂かれそうになっているような。昔は、精神が私の本体であって肉体なぞはどうでも良いものだと考えていた頃もあるけれど、今は肉体と精神のふたつでひとりの人間で、私はどちらが欠けても心地良く生きられないと思う。もしかすると本当に引き千切れてしまえばどうでも良くなり、それぞれ心地良く生きていけるのかもしれない。けれど、引き千切る手段を知らない私にとって、それぞれが別の方向に私という者を引っ張っていこうとすることは、とても苦しいことだ。

そんな私の心身をひとつにまとめる方法を、私をなだめる方法を探していた。それを、今日、夢の中で見つけた。目が覚めた時、とても不思議な気持ちだった。

こんなポエムのような核心に触れない文章をなぜいちいちブログで公開するのだろう私は、と思いもする。けれど日の目を見ないポエムよりも、踏みつけられても誰かの目に触れるポエムの方がよっぽど意味があるのではないかと、最近思う。

こうした文章は何も考えずとも私の頭の中のもやを表現すればいいだけなので、とてもラクに書けて、とても心がラクになる。対価を得ようとして書く文章は下地作りがどうしても必要になる。それが要らない。すぐに文章として書き出せる。私にとってこうして文章を書くことは、歌うようなことだ。頭の中にたゆたっているもやを文章にして吐き出している。

最近は人に見せない文章をたくさん書くようになったけれど、だからこそ思う。私は人に文章を見られて気持ちが良くなってしまうタイプの変態なのだと。

自分が変態だと認めてしまうことはなぜかひどく気持ちが良い。昔は自分のことを変態だと公表している人は一体何を考えているのだろうかと感じていた時期もあったけれど、なるほどこういうことなのかと思う。変態だと自他共に認められる世界は、無理矢理真っ当であろう世界に自分を歪めてこじつけて生きていくよりもずっとラクだ。ラク=幸せではないにしろ、全くの不幸からは抜け出せるのではないだろうか。

こんなどうでもいいことを考えながら、日々過ごしている。こうしてキーボードを叩く時は歌うような、得意な楽器を弾くような気持ちで、とても心が清々しい。

人生のゲームに多分ぼくは負けたのでしょう

 もういなくなったバンドの歌の歌詞。

人生ゲーム

人生ゲーム

 

YouTubeにはそれらしき公式系動画がなかったので、CDのリンク。1円です。

すごく好きで、今でもたまに聴いています。

悲観的になった時、悲観的な心と一緒に歌ってくれる悲観的な曲があると、不思議と前向きになれる。

好きなバンドがいなくなるのはとても寂しい。ベテランバンドも解散宣言。激動の百年間。

人生で初めて好きになったバンドはFIELD OF VIEW。その幼子が大人になり、なぜかロックバンドに傾倒する様、親は怪訝に見ておりました。

そんな私も、今ではボサノバが好きでウクレレを弾きたがっている。

歌の趣味ひとつとっても、人生は何が起こるからわからないなと思います。

 

※ 文中にも別のバンドの曲の歌詞が含まれています。

宇宙

なんとなく久しぶりに開いたはてなブックマークでこんな記事を見かけた。

cild.hatenablog.com

ブログをやめると宣言しながらブログを書き続ける彼と、ブログを休みますと言って全く更新していない私。なんとなく、反省した。

ブログを書くことは決して『義務』ではない。義務になっては面白くないと、思うこと考えること好き勝手に書き散らかしてきた。敷居を跨げば七人の敵あり、というけれど、ブログを始めてからは700人の敵がいる前提で生きている。去年の今頃の自分を思い出すと、本当に強くなったと思う。

実際には強くなったというか、不安を無視できるようになったと言った方がいいのかもしれない。

ほんの少しのきっかけ、例えば親しくない相手からメールをもらうだとか、そんなことですぐに不安が生まれ、足を捕まれ、そこに引きずり込まれることが当たり前だった。逃げ方がわからなかった。

最近は、ああなんだ、無視をすればいいのかということに気付いた。とても当たり前のことで見る人が見れば「今さら何を言っているんだ」と笑うかもしれない。けれど私にとって、この気付きは、日常生活を根本から変える革命のような気付きだった。

2月は全くブログを更新していなかったけれど、書いている文章量は正直ものすごく増えた。自分でも驚くほどに増えた。

1つ前のブログを書いた後ぐらいから、突然、文章仕事の発注が増えた。1月にお断りした仕事は、お断りしておいてよかったと心底思っている。もし引き受けていたら、書いていて苦しい上に、大したお給金ももらえず、また苦しむ羽目になっていたのかもしれない。

不思議と、断った後からは驚きの低単価仕事は来なくなった。本当に不思議だ。「引き寄せの法則」なんて考え方があるけれど、私は無意識に自分が嫌だと思う仕事を引き寄せることをしてしまっていたのかもしれない。そしてあの時、それを断ち切ることができたのかもしれない、なんて思う。この法則に従って生きて、私が死ぬ時に、その法則の真偽が垣間見える。私は所詮、この世界のモルモットでしかない。なんてことも思う。

そんな環境の中で、仕事でもプライベートでも、将来の自分への投資のような、そんな文章を書くようになった。たくさん。

そのおかげか、ここ2か月ほどで、文章に対する愛情や愛着がぐっと深まった。書けば書くほど、人に話せば話すほど、ああ私はやはり文章が、言葉が、文字が好きだと感じた。たった一枚、たった一行、たった一言、たった一文字。それが持つ影響力の大きさが、私は好きだ。まるで宇宙だ。私にとって、宇宙そのものと言ってもいいのかもしれない。私が生きる宇宙はここなのだろうと、ここであってほしいと、心底願う。

こんなスピリチュアルな話を、リアルでも堂々とするようになった。「変に思われないか」と悩まなくなった。変に思われようと私はこういう変な人間なのだから、それでいいと思った。

自由になるとはこういうことなのかもしれない。

泣く日々

2017年が始まってから、数えきれないぐらい泣いた。

朝目覚めては泣き、人と話しては泣き、本を読んでは登場人物に自分を重ねて泣き、夜眠る前に泣き。瞼はすっかり大きく腫れあがってしまって、たった二週間程度でめっきり老け込んでしまった。

姉には「老け顔ぶす」と言われた。この状況でなかなかなことを言ってくる相変わらずな人だな、と思った。事実、物凄く老けたので、腹も立たない。もともと美醜にそこまで執着もないので、何とかしなくちゃとも思えない。ただ、姉がそれに付け加えて「顔のマッサージぐらいしなさいよ」と言ってくるあたり、ただの悪口でもないのかもしれないな、と思える。私も姉も成長しているのかもしれない。

修羅場の渦中でも次から次に辛いことは起こる。薄らとした信頼の崩壊や、人との心のすれ違いや、命が果ててしまうことや。

誰のせいでもないから、誰も責められない。誰かにお前のせいだと責められても、性根が腐りきっているせいかその通りだと思えず、自己嫌悪もできない。

だから、とにかく泣く。ひたすらに泣く。

ここ数週間、泣く時は何も考えない。ただただ辛いと思いながら泣く。そしてその中で、私を大切にしてくれる人たちの言葉や優しさを思い出してようやく泣き止む。立ち上がる。生活をして、仕事をして、生きることに努める。

どんなに辛くても生きなければならない。恐ろしいことに、心が死んだとしても生き続けなければならない。心臓が動くのをやめるまで。

人は、自殺はいけませんと言う。なのに心が死のうがお構いなしだ。目に見えないから。血が流れないから。人は理性の中で目に見えない物を尊ぶ文化を築き上げてきたくせに、目に見えない物に対してとんと無頓着だ。

修羅場で落ち込んでいる渦中で、先日、仕事でも揉めた。更に落ち込んだ。と言うより、疲れ切った。

そんな私に、家族や友人が優しい言葉をかけてくれた。

「揉めた過程がどちらのせいにしろ、揉めることで敵を作ってしまうにしろ、今は自分がやりたい仕事以外は断った方がいいよ」と、ジャッジを下す以前の問題だとして、私を労わってくれた。本当にありがたいと思った。

揉めた過程は当事者にしかわからない。どちらが悪いのか、なんて終わった話をジャッジする必要も意味もない。誰が誰にどれだけ愚痴をこぼしたって、自己正当化でしかない。人は自分の都合で善と悪を分ける。それはもちろん、私も含めて。全ての人にとって正しいことなんてこの世界にはほとんど存在していない。

それをわかりながら、辛いと泣く私を労わってくれる人の存在は、本当に愛しくて大切だと思う。

私は今のこの状況に、ただ疲れた、落ち込んだと言うだけだ。他人の感情で流れていくこの環境で、とにかく精一杯、自分の大切な物を守るだけ。

きっとここしばらくの間に起こったあらゆる修羅場に関わってきた人たちは「あの女は頭がどうかしている」とそこかしこで私を話題にしていることだろう。

私の頭がどうかしているというところは否定しない。私のような面倒な人間を扱える人間の方が珍しいのだと思う。

けれど、私が面倒な人間だと知りつつ、友人として付き合いを続けてくれる人たちがいる。対等に意見をぶつけ合って仕事をしてくれる人もいる。

今も落ち込んでいる真っ最中だけれど、私を大事に扱ってくれているクライアントが私に仕事を依頼してきてくれた。

1月、企業にとっては多忙を極めるこの時期に、私のために時間を割いて仕事を作ってくれた。報酬もとびきりはずんでくれた。その上で「これで大丈夫ですか?」とまで聞いてくれた。泣きながら了承のメールを返した。

あらゆる揉め事の渦中で落ち込んでいること、仕事を増やしたいことは年初めにそのクライアントには伝えてはいたけれど、こうした形で私を慰めようとしてくれることが本当に嬉しい。頑張りたい。そうした気持ちにしてくれることも「報酬」と思える。

そうした気持ちになって初めて「会社のために頑張ります!」労働ができるようになるのだと思う。けれど、昨今の労働環境問題の多くは、こうした労働をそうした気持ちになる以前に求めてくる。それが美徳であり、当然であり、評価の対象だと言う。私はそれに頷くことはできない。

文章の値段はとても決め難い。1文字1円であれもしてくれこれもしてくれ、そのぐらいやって当然だろう!という人もいる。そこまで頑張って初めて評価できるんだという人もいる。

それで構わないライターもいるだろうから、その在り方は否定しない。その在り方について来てくれる人に仕事を頼めばいいと思う。

けれど、物の値段を決めるのは売る人だから、私が1円では売れませんと言う物を、1円で売れと値切られても、売れない。それで私のことを評価できないというのならば、評価してくれなくてもいい。

私は文章を書くのが好きだけれど、好きだから、もう誰かに媚びたり安売りしたりしたくない。何のために安定してブラックな案件をもらえる以前の仕事を辞めたのかわからなくなってしまう。

もしそうしなければ私の文章が売れなくなるのなら、売らなくていい。ライターでなくなってもいい。選ばなければ仕事はたくさんある。生きていくことができる。そうした生活の傍らで好きな文章を自分のために書いた方がよっぽど良い。

信頼関係は誰とでも築ける訳ではない。心を擦り合わせられる人と心を擦り合わせて、初めて足場を作ることができる。そしてそこから少しずつ、家のような、暖かい関係ができあがっていく。それが災害でなくなってしまうこともあるけれど。だからこそ、どんな災害にも負けないような家にしていかなければならない。頑張れば頑張るほど、潰れた時に辛い思いをするけれど、それでも足掻かなければいけない。幸せだと思いたければ。

今年が始まってからたくさん泣いたけれど、現在進行形で毎日泣いているけれど、少しずつ自分の中の正義感や決意が固まっていくのを感じている。何かがぶつかってくる度に、確固たる物になっていく。何が善で何が悪なのかわからなくとも、私の人生にとって良い物なのかどうか、それだけはわかる。

そしてそれを応援してくれる人がいる。励ましてくれる人がいる。評価してくれる人がいる。

どれだけ辛くても、そんな少しの声だけで私は笑っている。生きている。ちょろい女だ。

どれだけちょろいと思われても、私はとても恵まれていると思えている。こんな状況でもそう思えることが、とても幸せなことなのではないかとすら思えている。

今の修羅場はなかなか現実の出来事として語るには問題が大き過ぎるので、いつかフィクションの小説として書いてみようと考えている。

もしそれが完成する日までお付き合いいただければありがたい限りです。