底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

独りの夜、輝く夜

独り暮らしを始めてからというもの、以前にも増して気が狂ったように文章を書いている。

狂ったように、ではなくて、狂っているのか。ははは。

ずっと前から知ってはいたけれど、文章を書けば書くほど自らと世間の「ずれ」に気付くもので、私はよっぽど普通とされる人とは違う生き物らしい……と、自覚するようになった。

これは決して「私って普通じゃないから~」という自虐風自慢ではなく、ただただ自らを客観視して思うことだということは補足しておきたい。どちらかというと、今からでも普通と呼ばれるような人になれるものならなりたいと思う。しかし、三つ子の魂から狂っているので、無理だろうと思う。

三つ子の魂百まで - 故事ことわざ辞典

独り暮らしを始めると、「もっと働かなければ」というような焦りを感じるかと思っていたけれど、意外とそういうことはなかった。むしろ、以前よりも落ち着いている。

この部屋に決めた理由は、とにかく静かだったから。周りに店らしい店はなく、少し歩いた場所にコンビ二があるぐらい。夜歩くと、真っ暗な道の途中が突然コンビニの明かりで明るくなって、幻想的にすら思えるほど。集まる場所がないから、皆、家に帰る。皆、いつも、どこか集う場所を探しているのだろう、

少し離れた場所に、商店街がある。寂れてはいるけれど、ほど良く活気がある。閉まっている店もほとんどないし、いつも人が行きかっている。そこに、食料の調達にたまに伺う。昔ながらの八百屋に肉屋。少し昔にタイムスリップしたような気にもなるけれど、その場所はずっと前から通っていたような気がするほど心地良い。

今日は、八百屋で白菜を買った。大きな白菜を、丸ごと一玉。独り暮らしでそんなに食べるかと思われるかもしれないけれど、丸ごとの白菜は、葉をちぎりちぎり食べていけば、とても長持ちするのだ。ひと冬の間、もつと言われているほど。

私は独り暮らしをする時、どれだけお金に余裕がある時でも、しばらくは貧乏だと思い込んで生活をする、と決めていて。今はそれをとてもとても楽しんでいる。家具に関してはそこまでけちることはしないけれど、食だったり、消耗品だったりについては、とことんケチるようにしている。

これまで、肉は一度も買っていない。鶏の皮ばっかりをたくさん買い込んでいる。この部分が嫌いだという人もいるけれど、私はとても好き。味はもちろんのこと、調理する過程も楽しくて好き。

鶏の皮を鉄のフライパンに放り込んで、がんがん火を焚くと、どんどん油があふれ出てくる。鉄フライパンの中はすぐになみなみの油で満たされて、鶏の皮は自らが出した油で揚げられていく。この変化が、とても楽しくて仕方がない。

私はいつもこの光景にうっとりと見惚れ、うっかり焦がしてしまう。毎度のようにそれを繰り返している。そろそろ良い加減を覚えねばと思いつつ、あまりにも楽しくて。

この油は、香味野菜と一緒に火を通して保存すると、炒め油なんかにも使えるらしい。が、私はそれはしていない。ライターをしていると色々な健康情報に触れるものだけれど、「油の酸化」が気になってしまう。熱を通した油なんて、使う時にすっかり酸化しきっているのではないだろうか。なんて、思っている。実際には外食でたくさん摂取しているのだろうけど、見てわかるものは、気になってしまう。

こうして作ったおかずに、味噌汁に、玄米が、いつものご飯。

玄米なんて、質素なふりをしながら白米より高いんじゃないの、と思われたかもしれない。私も、今の世では玄米は白米よりも高価だから、貧乏暮らしがモットーの今、諦めなければいけないと思っていた。

しかし、不思議なもので、引っ越したタイミングで、なぜかクライアントから大量の玄米をいただくことになった。引っ越す、とか、米代が、だなんて、一言も話していない。それなのに、まるで私が欲しがっていることを知っているかのように、大量の玄米をくれた。驚いた。

米代ってどんなもんだったっけ、高かったっけ、と考えていたら、調べるよりも早くいただいたので、とても不思議な気持ちになった。

最近は、こういう不思議なことが割とよくある。「ああ、欲しいなぁ」と思っていたら、ぽんと目の前に現れるというようなことが。

文章の仕事を始めてから、縁というものの不思議さやありがたさを思い知ることがとても多くある。これまで何を頑張っても得られなかったもの、気付けなかったものが、ただ自分のやりたいことを真剣に誠実にやろうと腹をくくっただけでこんなにも。あまりものありがたさに涙することも珍しくない。

もちろん、辛いこともたくさんある。「女ひとり自営業、やっていきたいんだったら」なんてしょうもないことをのたまうおっさんもいる。もっと酷いことを言う人も、する人も、いる。

けれどその度に、私は誰かに助けられる。もう駄目だろう、もう誰も私のことなんて助けてくれないだろう、好きなことを好き勝手やっているのだから仕方ない、独りでだって生きていってやるさ……と思うのに、いつも、誰かが助けてくれる。

それは、文章の仕事を始める以前からそうだった。生きていることが辛くて逃げだそうとした私を、この世界に繋ぎとめてくれる人たちがいた。だから、私は今生きている。それは、今の仕事うんぬんは関係のないところだと思う。

けれど、なんだろう。自分のやりたいことをやって築いた縁や信頼関係がそこに在ることの喜びがそれに加味されて、余計に嬉しくなる。私のやった仕事がそれだけ評価されたということでもあるのだから。もし適当な仕事をしていたら、きっと、今みたいにはなっていなかっただろうから。

なんてことを考えながら、食事をする。そうすると、質素だなんてことを忘れるぐらい美味しくて、心が満たされて、ああ生きていて良かった、と思える。

心にも少し余裕が出てきて、本を以前よりも読むようになった。ゆったりと心に余裕を持ちながら本を読む時間を持つだなんて贅沢、あと何年先になるかと思っていたけれど、ぽっと手に入ってしまった。私にとっての贅沢なんて、ちっぽけなものだ。

最近、読んだ本。短い時間で読める短編が欲しいなぁと思って手に取った。思ったより内容が軽くって拍子抜けした。けれど、この小説の中には女性の語りが多くあって、その軽やかさに、少しだけ影響されたりしている。

輝く夜 (講談社文庫)

輝く夜 (講談社文庫)

 

とはいえ、私は読むよりも書くことの方が好きで、読んでいる時間よりも書いている時間の方が圧倒的に長い。このブログも気が付けばなかなかの文字数になっている。時々、自分で驚く。書くことは、なんてこんなに楽しいのだろう。嫌なことも時間も全部忘れて、書いてしまう。

もっと、もっともっと、もっとたくさん書きたい。それを誰かに読まれたい。そして何かを言われたい。否定でもいい。肯定的な感想だったら大喜びだ。私は文章を褒められることが好きなのではなく、それを通して心を触れ合わせたり、議論をしたりするのが好きだ。

否定されることが怖いと、ブログを書く前は思っていた。けれど、否定されればされるほど、自分の中の感覚がどんどん研ぎ澄まされて、今まで見えていなかった自分が見えることがある。それは新しく現れる訳ではなく、ずっと前から私の中にいたんだけど、目を向けていなかった自分。そうした存在に「否定」で気付くことがある。そうしてたくさんの自分と向き合えることが、とても楽しいし嬉しい。すごく悲しかったり悔しかったり腹が立ったりするけれど、それでも、自分と向き合って会話できたときの喜びがとてつもないもので。私という人間がどんどん研ぎ澄まされて尖っていく。

それを望まない人もいる。丸く朗らかで柔らかく、刺さっても痛くないような風体でいた方が喜ぶ人もいるだろう。

けれど私は、自らが尖って光ることが、とても誇らしく思える。

今は、こうして核心をつかない話ばっかりブログにしたためているけれど、いつかもっと、核心をついた話ができるようになりたい。そしてもっと研ぎ澄まされて尖って、もっともっと他人と、自らと、社会と向き合っていけたら。

そんなことを夜、独り、小さな部屋で思うのでした。

独り立ち

独り暮らしを始めた。

生まれて初めての独り暮らし。あれが面倒だこれが面倒だともっと騒ぐ羽目になるかと思っていたけれど、驚くほど快適な生活が送れている。私にとって、家族がいるという煩わしさの方が、家事をする煩わしさよりも上回っていた。掃除も、洗濯も、全く苦にならない。

 

新生活、というものは、もっと胸が高鳴るものかと思っていた。実際、結婚したときの新居で初めて眠った日は、もっとドキドキしていたように思う。

まるで、この部屋は、以前から私のために用意されていて、ここに住むことが決められていたかのように快適で、何もドキドキしない。もうずっと昔から住んでいた家のようだ。今まで住んでいた家と、全く似た部分なんてないのに。こんな部屋があったのかと、嬉しく思う。

何より嬉しいのは、この部屋は、私の文章がお金に変わった結果であるということ。

私が必死に頑張ってきた姿を見守り続けてくれた人たちは皆、「お城だね」と言った。

新しくもない1Kの部屋。お城のような豪華なものではないし、置いてある家具や家電は機能的でメカニックなものが目立つから、城というより基地だ、と、私は思っていた。

けれど、「お城だね」と言われて、とても嬉しくなった。

文章の城を築き上げた。私はこれまで、こんなにも何かを成し遂げたことはなかったように思う。

これまで会社に属していていただいていたお金と、全然違う。私の意思が、誠心が、正義が、善意が、悪意が、あらゆるものが染みこんでいるお金。それで買った、家具や家電。私は結婚したときに家具家電を選んだ時と、全く違う選び方をした。

華美でなくてもいい。機能的で、できれば鉄よりも木でできていて。そうした希望を叶えてくれるのなら、少しぐらい多めにお金を出してもいい。だって、これからずっと付き合っていくのだから。でも、そんなにお金持ちではないから、しっかりと吟味してそれなりのものを。

家電は、必要最低限でいい。テレビはまだいらない。でも大きなプリンターは欲しい。たくさん紙を印刷しても歪まない、インクも綺麗に出る、頼もしいやつ。

ずっと憧れていた長机も買った。180センチもある大きな長机。紙をたくさん広げておきたかった。書きたいときに書きたいことが書けるように。

すごく悩んだけれど、化粧台も買った。私が最も苦手とする片付けを少しでもきちんとできるようにしようと考えた時、最も散らかりやすいのが化粧品だと考えた。私はできるだけきちんと化粧をするようにしていて、それは誰にも馬鹿にされないために。毎日使う細々とした物を毎日きちんと片付けるには、片付けやすい箱があればいいと思った。

ホームセンターで偶然出会った大きめのクワズイモも買った。やっぱり、植物は欲しい。以前大事にしていたクワズイモは、元夫にちょん切られて枯れてしまった。今度こそ大切にしようと、枕元に置いた。

朝は日の光と、小さな電車の音で目が覚める。クワズイモの葉の上に葉水が光るのが見える。少しして、長机に向かって座る。日記を書く。昨日一日がどんな日だったか、思い出してひたすら綴る。時間が許されれば1時間ぐらい没頭して書き続けている。何ページ書いても書くことが尽きない。

周りはとても静かだ。住宅街の中、ほとんど騒音がない。ドアと窓を閉めれば、とても静かで、心まで鎮まるようで。

 

実家にも、結婚していた時の家にも、私はいつも何か不満を持っていた。あれが足りないこれが足りないと買い足してはみるものの、満たされることはなかった。今、とても満ち足りている。ただ書いているというだけで。

こうして書けることは才能なのだと、ある人が言った。嬉しかった。けれど、悲しかった。言った本人ならわかると思うけれど。

まだ不完全な文章の城で、文章を書き散らす。こうしているだけで幸せなのに、どうしてそれを奪いに来る人がいるのだろうか。心の平穏を、奪わないでほしい。奪われるぐらいなら、私は。

 

暑い

夏が来たということを突き付けるような暑さが続く毎日、元気でお過ごしでしょうか。

私はというと、あっという間に汗で体の至るところがかぶれています。痒いだけでも辛いのに、痛い。生まれついてこうした肌質なのですが、きっと、前世で余程悪いことをしたのではないかと思います。

大した災害にも遭わず、頻繁に事件に見舞われるといっても特に大きな怪我をすることもないくせに、何をのたまっているのかと思われるかもしれません。自分でも、そう思う時があります。こうしたことに見舞われる人よりまし、ああした体質の人よりもまし。そうしたまし探しに明け暮れた日々もありました。それは、「私はなんて不幸なんだ」と小説や詩を書き散らした思春期を過ぎ、社会人になってからでした。社会不適合者である私が社会に馴染むためには、そのようにして「まし」と「普通」に近いことを探して自らに当てはめて、社会に居てもおかしくない人間だと思い込む必要があったのです。普通に近付いたのか、麻痺したのか、私はあっという間に社会人っぽくなりましたが、様々な事件に見舞われて社会不適合者に戻りました。結局、私はどうすれば良かったのでしょうか。そう思う時があります。今となっては、あれで良かったのだと思います。そうでなければ今、平成の世の終わりを前にして、文章を書き散らすことはなかったでしょう。私は不幸だと世を恨んでいたに違いありません。あの時どれだけ何があってもその選択をしたことで、私は今、思うままに書き綴ることができています。そうして今、社会人として社会に身を置くことができています。社会に椅子があるということは、何と嬉しいことだと、日々感じずにはいられません。

さて、今日、本屋に立ち寄りました。それなりに大きな本屋で、入り口付近には、流行りの本を置くコーナーがあります。そこは立ち読みができるようになっています。今日立ち寄って、女性の自己啓発本が増えたと感じました。決して揶揄している訳ではなく、そう感じたのです。メイクの本も、ベーシックなやり方を記した本だけでなく、「このようになりたいのならこうしましょう」という本をよく見かけるようになりました。「このように」というのは、見た目だけのことではなく、「このように生きたいのであれば」という意味合いが含まれています。だから私は、これらのメイクハウツー本も、自己啓発の類に含まれるのではないかと思うのです。ひと昔前であれば、自己啓発本を読んでいると小馬鹿にされることがありました。ここまでカジュアルにポピュラーになれば、そうしたこともなくなるのではないでしょうか。とはいえ、私はこうした本を人前で堂々と読む度胸は、まだありません。自尊心を保つため、常々人を小馬鹿にしたいと願っている輩がいますから、そうした輩に目を付けられないためにも、私はまだブックカバーを取ることができません。

さて、そういう輩の話がしたいのではないのです。今日立ち寄った本屋で、そうした女性向け自己啓発の類の本を手に取り、目次を開きました。その話がしたいのです。私は自己啓発やビジネス書は、目次を熟読することから始めるようにしています。本全体が見渡せること、私の疑問への答えが書かれているかを手っ取り早く探すためです。目次で興味が持てなければ、その本はそれで閉じます。興味の持てる項目があれば、その頁を開きます。そこで、感銘を受けるか否かで、買うかどうかを決めます。

手に取った本には「隙の作り方」というような項目がありました。私はすぐに、その頁を開きました。

隙を作りたいのではありません。隙をなくしたいのです。何故かと言うと、私が頻繁に被害に遭う理由を「隙」のせいにして、私を責め立てる人がとても多いからです。「では隙をなくすから、何が悪いのか教えてほしい」と聞くと、大体の人は「服」について言及します。「あなたの着ている服が悪い」と。そう言われ、私はずっと「被害に遭わない服」「普通の人になれる服」を探し続けました。けれど、そんなものはこの世に存在していませんでした。何を着ていようと、手を出す輩は手を出すのです。何を意図したのかわからないようなプリントTシャツも「萌え」になるし、女性教師を思わせるようなきちんとした格好をしても「エロい」となるのです。男のような恰好をすればと思われるかもしれません。私にもそう考えていた時期がありました。けれど他の女性に、それは最も駄目だと言われました。「手を出しても許される空気が醸し出される服装」なのだそうです。世の中には多種多様な嗜好があるのです。四面楚歌です。

私は疲れました。何故、好きでもない服にこんなにお金をつぎ込まなければならないのだろう。そもそも、よくよく思い出してみれば、同じ職場にいて、同じような格好をしていても何もない女性もいました。結局、服ではなく、「私」なのです。「私」の何かが何かを呼んでいるのです。

私は疲れました。大っぴらに嘆くことが許されない程度の不幸を定期的に受け続け、私は疲れました。人は、目隠しをされて、顔に水滴を落とされ続けると発狂すると言います。私はそれに近い人生を、送ってきているのだと思います。だからこそとっくに発狂していて、どれが自分の本当の思いなのかもわからなくなっているのです。

疲れた私は、開き直りました。好きな服を着るようになりました。けれど、周りの反応は変わりません。手を出す輩は手を出すし、出さない人は出さない。結局、多くの人が原因だと考える「服」なんてものは、何の問題でもなかったのです。なんという無駄な投資だったのか、とも思いますが、私はこれから、女性に向かって「お前の服装が悪いから手を出されるのだ」と言う人に対して、「手を出す奴が悪い」と胸を張って言うことができる分、投資の価値があったのではないかとも思います。そう、罪は加害の中にしかなく、被害の中には在り得ないのです。被害の中にあるのは、責められるような罪ではなく、これからその人自身が生きていくための教訓に近いものしかありません。

私にも、被害の罪を詫びいっていた時期がありました。あれほどに辛いことはありません。被害の傷に耐えながら、その傷に塩を塗りこむような。塩をすり込んで清めなければならないほど、汚れたもののように思えるのです。今でも、被害に遭うと、被害の罪を詫び、償おうとしてしまう癖があります。私はそれを克服しなければいけません。どれだけその癖が反発しても、普通の人になりたいのであれば、私はそれは悪い癖だと自らに教え続けなければいけません。それを知ることができただけ、幾分か成長したように思います。

さて、被害についての話がしたいのではありません。「隙」について話がしたいのです。

その本には、「隙とは人間味だ」と書かれていました。私は意表を突かれました。

「人前で思いっきり笑うような、気取らない人間味こそ「隙」だ」

私は、とても納得しました。ようやく「隙とは何か」の最適解を得た気がしました。

同時に絶望もしました。私が「隙」を削ぎ落すには、こうした人間味を削ぎ落すということです。人間味を削ぎ落とすということは、人間関係を変えてしまうということです。

私はよく笑います。人が好きだからです。気取る余裕なんてありません。人間味たっぷりに笑います。それが私の落ち度だというのであれば、私は、人を好きであることをやめなければいけません。削ぎ落した先に被害のない人生が待っているという確約のないまま、私はそれをすることはできません。もし確約されたとしても、私はそれをすることはできません。私は、人がとても好きです。どうして、好きなものを捨てなければならないのでしょうか。

これは、本の批判ではありません。被害の原因を「隙」なんていうもののせいにする人の批判です。「隙」というものが人間味なのであれば、それは、絶対に責められるべきものではないでしょう。

そもそも、「隙」があろうがなかろうが、やっちゃいけないことはやっちゃいけません。全裸の女の人が目の前にいても「カモン」と言われるまで手を出しちゃいけません。服を着てくれとお願いするか、さっさとその場を去るか、説教するか。この三択しかありません。据え膳だと思い込んでかぶりつくことは許されないのです。そもそもそうした関係性のない中で全裸の女性が目の前にいたらそれは全裸の女性に罪があるので通報したら逮捕してもらえるでしょう。第四の選択肢です。もしそうした選択ができずに加害に及んでしまうのであれば、それは加害者と化したその人の責任であり、全裸の女性に責任はないのです。

このことは、実は小学校で教わります。幼稚園かもしれません。居心地の悪さや自己防衛や保身のためにそんな当たり前のことを忘れて被害を責め立て加害を守る人のために、人間味を削ぎ落すなんて愚かなことはできません。私はこれからも、今までのような理不尽に耐えていかなければいけません。それも一つの人生だと割り切り始めました。私は私のままでしか生きられないのだから、その被害の数も私だと思い、反撃手段を蓄えていくしかないのでしょう。

「減るもんでないしいいだろう」論もよく耳にします。こうのたまえる輩は、目で見えるものしか見ていないのだろうと思います。

怪我もなく、金銭的な損失もない場合でも、減ります。「被害を知らない世界」を失うのです。「安心して暮らせる世界」を失うのです。電車の中で体を触られただけで、もうその人は、「電車の中では痴漢に遭うかもしれない」と常々周りを警戒するようになります。心がすり減ります。私にも、電車に乗る度に体が震える時期がありました。今でも満員電車では過呼吸になることがあります。私は「安心して乗れる電車」を痴漢たちのせいで失いました。

「被害」とされているものには、そうされる理由があることを忘れてはいけません。

今回のブログはただの日記なのですが、恐らく、一般的な思案事ではないのだろうと思います。最近になってようやく、自分の思考の癖のどこが一般的ではないのか、少しずつわかるようになってきました。「私って人とは違うから」と偉ぶりたい訳ではなく、冷静に人との差異を見つめられるようになってきましたということです。何かにつけて事件だ法律だ人生だと考えあぐねるこの思考は、あまり一般的ではないのでしょう。けれど私は、その答えを見つけなければ、心の置き所がなく、ずっと不安で仕方がありません。だから、四六時中探し続けているのです。

恐らく、この疑問には答えがありません。私がこの先、心の底から安心できる世界など存在していないのでしょう。わかっていながら探すなんて、愚かで滑稽でしょう。それもまた一つ、私の人間味なのではないかと思います。

やる気スイッチ

やる気なんてものは存在しないらしい。

r25.jp

 

やる気」という言葉は、「やる気」のない人間によって創作された虚構なんですよ。 

人間は言葉が発達したことで、行動の結果にしかすぎないものに対して「やる気」なんて言葉をつくってしまった。それに翻弄されているだけなんです。 

「僕には才能がないからできません」と言い訳をして何もしない、という理屈と同じようなものかと思った。才能がないからできないのではなく、何もやらないから才能がないのだと私は思う。「文章が書けるって才能ですね」と言われるけれど、ずっと書いてきたから書けるだけで、これが天からの授かりものかと聞かれたらよくわからない。生まれてすぐに七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったというような逸話があれば天からの授かりものだと自信を持って言えるのだけれど。

唯我独尊 - Wikipedia

「体が小さい方が短距離走に向いている」というような素質は間違いなく生まれついてのものなのだろうけれど、体が小さい人が必ず短距離走者になるとは限らない。素質を活かして道を選択し、努力をするから「才能」として芽を出すのだと思う。私はねちっこくしつこく考えたことを言葉にしようと足掻いたからこそ今がある訳で、才能というものが本当にあるのであれば、こうした執念のようなものの方が才能に近いのではないだろうか。一時期流行って一瞬で消えた十三星座占いでは蛇使い座である私は、執念深く生きるという星のもとに生まれたのだろうと思う。最近は、月星座というものも流行っているようで、雑誌やWEBサイトでもよく目にするようになった

お金の「引き寄せ力」を知りたいあなたへ Keiko的Lunalogy

お金の「引き寄せ力」を知りたいあなたへ Keiko的Lunalogy

 

 知人にこれを薦められて読んだ。私は蠍座らしい。占いや引き寄せとか言うと「そんなエビデンスがないものを信じるなんて」と言われることがある。けれど天動説か地動説かと騒がれていた時代は、現代では常識である地動説ですらオカルトだったのではないだろうか。そう思えば、今オカルトとされているものも100年後には何かしらエビデンスが取れているかもしれない。潮の満ち引きが月の引力に影響されているのであれば、人間も、何かしら影響を受けていてもおかしくないと私は思う。

海の自然のなるほど 「潮の満ち引き」

それに、そうした確証のない意味のないことを生活に取り入れることで前向きに考えて人生を選択していけるのであれば、「エビデンスのないものは意味がない」として生きてネガティブな選択をしてしまう状態よりも余程良い状態なのではないだろうか。意味がないことを徹底的に退けることに、私は、あまり意味を感じない。エビデンスがあろうがなかろうが、自分自身がそれでより良くなればいいのだと思う。というより、そう揶揄する人は、本当はエビデンスがあろうがなかろうが実はどっちでも良くて、ただ目の前の私を言い負かしてやりたいのだろうと思うこともままある。今流行りのマウンティングというやつだ。先日「女子会」と呼ばれるただの飲み会で話題になったのだけれど、達観している風を装い「はい、それマウンティング~」と言ってさりげなくマウンティングしてくる「達観マウンティング」の事案が相次いでいるらしい。バラエティ番組で「今話題のセクハラですが」とトレンド扱いされるまでに話題のセクハラが問題になる中で「すぐセクハラって言う」という問題も浮上している。これも被害者多数だ。自衛も大事だとは思うのだけれど、相手を思いやる気持ちも大事だと思う。今の時代に必要なのは、人と人の対話だと思う。

やる気を出すためには脳のスイッチを入れる必要がある

最終的にやる気のようなものは脳内物質的なものだけれど、それを出すためには脳のスイッチを入れる必要があるらしい。1つのことに集中すれば脳のスイッチが入って目の前のことに真剣に取り組めるらしい。

その情報を参考に、思うままに思うことを書いてみたら、妙に頭がすっきりしてやる気が出た気がしなくもない。今、私の脳内で、私がやる気だと思い込んでいる脳内物質が出ているのだろう。虚構のやる気の正体。今度時間がある時に何と呼ばれるものなのかを調べてみようと思う。もし何という脳内物質なのかがわかれば、今一部で話題になっているバイオハックとやらで、それに該当する脳内物質が出せる方法があるのではないのだろうかと考える。

私がバイオハックという言葉に出会ったのはシリコンバレー式頭が良くなる全技術という本。これに従って冷水シャワーを浴びたら家の中で遭難したようになり死にかけた。何事も程々にするということを念頭において生活しなければそろそろ私は死ぬ。

HEAD STRONG シリコンバレー式頭がよくなる全技術

HEAD STRONG シリコンバレー式頭がよくなる全技術

 

そろそろノートパソコンの電池がなくなりそうだ。ドヤWindowsを中断して帰宅しようと思う。やる気が出たので、きっと、仕事が捗って仕方ないはずだ。

This is me

「ビジネスのためにブログを始めました」

「ライティングのこと教えてください」

という人が周りに増えた。

「毎日更新しているんです」と、聞くと、私ももう少し日々のことを更新しようかなという気になった。

ということで、どうでも良い日常的な思うことを書いてみようかと思う。

 

最近、カフェインを抜くようにしている。先日ちらりと書いたように、右手が麻痺したことがきっかけ。

なぜ右手が麻痺してカフェインを抜くのか。

単純に血行を良くすることが目的。

私は全身の筋肉ががちがちに固まっているらしい。その中でも特に右手が酷いらしく、神経を圧迫して麻痺してしまったそう。実は今もまだ右手の薬指と小指がまともに動かず、右手は3本の指でタイピングしている。

整骨院の先生が私の右腕の筋肉を触り「うわっ」と言った。

友人が私の右腕の筋肉を触り、「骨?」と聞いてきた。

それぐらい、固い。名誉の負傷だと私は言い張る。時折蹲るぐらい痛むので、その時はそれどころではない。

今年に入ってからは、去年に増して書いている。特に2月と3月は小説を仕上げるために、昼も夜もなく書いた。

家にいる日は、夜中に書き終えて、早朝に書き始める。

朝起きてそのままパソコンの前に座り、書き、体力がなくなってきたら食べ物を胃の中に詰め込み、パソコンの前に座り、書き、考え事をしている時間に入浴し、上がったらパソコンの前に座り、書き、ひと段落ついた時に倒れるように眠った。

外に出る日は、ノートとiPad、もしくはノートパソコンを必ず持ち歩き、5分でも時間があれば書く。考える。

iPadだと書きにくいので、できるだけパソコンを持ち歩いた。

「重そう」「それ、要る?」と結構聞かれたけれど、要る。書きやすい状況を作れば作るほど、思考がクリアになる。と、私は思っている。書きにくい状況を排除するためだったら、どんな努力も惜しまなくて良かった。

特に3月はそんな生活だった。仕事量を極限まで減らして時間を作って書いた。

夢中だった。気が違ったみたいに楽しかった。多分、気が違ってた。ランナーズ・ハイに近い状態だったと思う。

「ここまで必死になって書いて、この小説が何の意味を成さなかったらどうしよう」と思い、バッドトリップしたこともあった。意味を成さなくても意味はある、と、冷静になった今となっては思えるのだけれど。

あんなにも取り戻したいと願ったこの溺れるように泳ぐような感覚を取り戻したのだから、それだけでいいのだと思う。

小説を何度も何度も書き直して、文章ととても長い時間向き合った。理解が深まった。今、文章を書くことが、以前よりも楽しい。

そしてこの感覚を取り戻せたのだから、二度と失わないように努力できる。私は今、とても強いと思う。

なんてことをしていたら、右手が麻痺した。右手よりも頭の方がおかしいんじゃないのと思われるかもしれないけれど、それはカフェインを抜いたぐらいではどうしようもないのでもうどうでもいい。This is meだ。グレイテストショーマン面白かったです。This is meのくだりで泣きました。それ以降の流れは少し納得がいかなかったけれど。

とにもかくにも、右手を回復させるために必死のここ最近。

普通の会社員だったらこんなことはなかった。そういう生活がそもそもできなかった。今の生活で本当に良かったと、今の生活を構成してくださっている方々への感謝は尽きない。それまで見守ってくれていた、元夫にも。

カフェインをやめて、温泉水を飲んでいる。血液を循環させるために、やたら体を揉んでいる。友人と会話をしながらもずっと揉んでたら「たまには休んで」と言われた。多分、この休まない癖も血行不良に影響していると思う。

どんな理由があるにせよ私は落伍者だから、人の倍努力してようやっと人並みで、人として扱われるにはそれ以上の努力をしないといけない。常々そう思っているから、血行も悪くなるのだろうと思う。この思考を中断することができればいいのけれど、頭がおかしいのは、もう、どうしようもない。

この社会を巡り続ける人的な理不尽とそれを循環させるストレス

今、右手の一部が麻痺していてうまく動かない。

文章仕事の休憩に趣味の文章を書く、ということをしていたら、指の神経がやられた。文章を愛し過ぎたゆえの損傷に、私は心から喜んだ。そうそう努力が認められない世の中で、物質が私の努力を認めたのだから、これはとても素晴らしいことなのだと。毎週2、3回の通院を余儀なくされたとしても。愛は痛いものだと聞いたことがあるから、もしかすると、私は文章から愛を返してもらっているのかもしれない。

 

だなんて空想を繰り広げて喜んでいる最中、事件は起こった。

 

「普通に生きていたらそんな大層な事件にそうそう遭わない」と言われるけれど、面倒なので「ですよね~」と返事するけれど、私はなぜかトラブルが向こうからやってくる。

「そんなこと言って、何かしらトラブルに見舞われる原因があるんだって」と言われるけれど、「ですよね~」と返事するけれど、本当に一方的に向こうからトラブルがやってくることが、多々ある。「そういう星のもとに生まれた」としか説明がつかないことが、世の中にはある。

 

例えばその昔、仕事で終電になった日。電車から知らない男に尾行されたことがある。

あからさまに尾行されていた。ひと気のない道に入ったら危ないと思い、帰り路の途中にある女子トイレに逃げ込んだ。

周りの施設はとうに閉店している時間。電話で家族を呼んだけれど、助けに来るまで時間がある。それまでトイレの個室に閉じこもろうとそこで待機していた。

 

ドアがノックされた。警備員だった。「助かった」と思った。

「今、変な人に追い掛けられていて」と言うと、

「は? 誰もいないけど。あんたは頭おかしいのか? このトイレはもう鍵を閉めるから出て行ってくれ」と言われた。

「本当についさっきここに入って、本当にいたんです。近くにいるかもしれないので、すぐに家族が迎えに来るので、五分だけ待ってください」そう言うと、

「じゃあ、あんたが入ったまま鍵を掛けてやるよ。これで安心だろう」

と言って、警備員は笑った。背筋が凍った。

 

押し問答をしている間に母が迎えに来てくれたので、私は事なきを得た。

 

この事態を、どうしていれば避けられるのか。何1つとして能動的に事件を起こそうとはしていないのに、知らない男に追い掛けられ、早く帰りたい警備員に責められる。もうとっとと死ねとでも言われている気分だった。

「おかしな人に会う前におかしな人だと思われるために奇声を上げながら帰れ」

と、本気なのか冗談なのか馬鹿にしているのかわからないけれど、提案されたことがある。実行したことが一度だけあるけれど、一度だけで心が折れた。お風呂のお湯が優しく思える程に落ち込んだ。若気の至りだ。

 

こんな事件に見舞われ、あんな事件に見舞われ、最近ではこのような事件に見舞われた。

 

その夜、私は電車をひと駅乗り過ごしてしまい、タクシーに乗ることにした。

閑散とした駅前のタクシー乗り場。一番前に停まっているタクシーに乗り込み、目的地を告げ、疲れに身を委ね、目を閉じて時間を過ごした。

そう遠くなかったのですぐに到着し、眠っていた訳ではないのですぐに起き、財布を取り出した。

 

1320円の支払い。

まずは千円札を出した。運転席と助手席の間にあるコイントレーに、置いた。

次に小銭入れを探り、五百円玉を取り出した。コイントレーと手の距離が3センチあるかないかのところで手を放し、小銭を置いた。少しだけコイントレーの上で小銭が転がった。とは言っても、飛び跳ねた訳でもなく、転がり回った訳でもなく、ころり、ぱたん、といった様子だった。特段、珍しい光景ではなかったと思う。

 

それを見た運転手がおつりを渡しながら私を睨み、

「お金を投げないでください」と言った。

 

運転手の言うことを、私はすぐには理解できなかった。

「投げてませんけど」普通に思ったことを答えた。

 

「投げた」「ふざけるな」と激昂する運転手に

「投げていません」「コイントレーの上に置いただけです」と言い返した。

 

言い返してくるとは思っていなかったのだろうか。

運転手は「とっとと降りろ、警察を呼ぶぞ」と言い出した。

 

「呼べばいいじゃないですか」と、私は答えた。

売り言葉に買い言葉というよりも、この時はまだ、もし私に非があるのであれば私が警察に怒られた方が良いと思った。

そこまで悪いことをしているのに自覚がないのであれば、全面的に私が悪い。そこまで怒るのであれば、可能性はあるのかもしれない。そう思った。(冷静に考えたら、そんな訳がない)

 

運転手は「わかった」と言って、タクシーの扉を閉めて走り出した。

「近場の交番まで直接行ってやる」とのことだった。

 

夜中、他の車がほとんど走っていない道路、パニックになっている私、恐らくパニックになっているであろう運転手を乗せて走るメーターの切られたタクシー。

本当に交番の前まで行くだなんて保証もない。無事で帰れるという保証も。

「とうとうニュースデビューか」と思いつつ、停まった地点で彼がどう出るかでどうするかを考えようと思い、スマートフォンを握り締めた。

スマートフォンの上部を人差し指と中指で支え、他3本の指で左右を包む。この状態でスマートフォンの下部を人の顎に思い切り当てることで、一瞬、相手を怯ませることができる。波乱万丈な人生の中で得た護身術の1つだ。油断している相手にしか使えない。失敗したら二度目はない。この技は慎重に繰り出さなければならない。そんなことを考えていると、少しだけ息が弾んだ。

 

心配は肩透かしで、タクシーは本当に交番の前で止まった。 

「荷物を持って先に降りろ、俺が先に降りたらお前が金を持って逃げるかもしれんからな」と運転手が言った。

降りた瞬間逃げるつもりなのは、切られないエンジンが物語っている。 

この人、適当に喧嘩を売って後悔している、と、その時気付いた。

投げてもいない金を投げたと言われ、望みもしない交番の前まで連れて来られて、荷物を持って降りろと言われている。

こんな理不尽、許してなるものか。

駆逐してやる。そう思い、「そっちが逃げる気満々でしょう」と、その場で警察に電話をした。警察には昔からお世話になっているから、呼ぶということに抵抗は一切なかった。

 

警察官が来た。私は保護(?)された。私は怒りとパニックで泣きながら、事情を話した。

5分も経たないうちに、運転手の話を聞いていた警察官がやってきて

「運転手さんが謝るって言っています。連れてきていいですか」

と聞かれたので「いいですよ」と答えた。本当に謝ってくれるのだと、その時はまだ信じていた。

 

運転手は、ふんぞり返り、「どーもすみませんでした~」と適当に謝ってから、踵を返した。

タクシーに乗って、逃げて行った。

 理不尽だ。

何で私は、夜中、正規のタクシー料金を支払って、よくわからない喧嘩を売られ、目的地ではないところで降ろされ、置いて行かれなければならないのだろうか。

めちゃくちゃ悔しくてその場で泣き崩れた。

 

「立場上、あんまり言ったらダメなんだけど、あれはあの兄さんが悪いな」

と、警察官がパトカーで家まで送ってくれた。パトカーに乗るのはどれぐらいぶりだろう、と思ったけれど、よくよく考えてみたら初めてだった。(よくよく考えてみたら去年か一昨年に乗った。保護(?)された時。語る程でもない被害届を出さない程度の事件にはたまに遭う。そういう星のもと)乗ったことあるのは現場検証に行く時のための刑事カーだった。

どちらにも共通していたことは、警察官も刑事も私のことを必死で慰めてくれたということ。

 

逃げる直前、タクシー会社の名前を記憶したが、車のナンバーを記憶できなかった。運転手の名前を確認しようとしたら名前の書いてあるプレートを隠されたのでちらりとしか見えなかった。

「これであいつはお咎めなしとか本当に無理」と号泣しながらこぼすと、

「タクシー会社は、その時間に運転手がどこにいるか把握しているから、会社にかけてごらん」

と警察官がアドバイスをしてくれた。

帰ってすぐ、タクシー会社に電話をかけた。電話に出た人は、その人の上司のようで、話をしたところ、

「あの、頭つるつるで髭の奴ですか」

すぐにそう答えた。本当にこう答えた。

恐らく、他にも問題を起こしていたのだろう。そいつはすぐに捕まり、「必要とあらば今すぐにでも謝罪に」とおっしゃっていただいた。

 

翌日、やたらでっかい和菓子の箱を持って謝りに来た。和菓子はいらないから運賃を返せと思ったけれど、そういうのが目的と思われたくないのでやめた。

その夜のことを最初から最後まで反芻して言葉にしていただき、足りないところを私が付け加え、すべてを思い出していただいた上で「申し訳ございませんでした」と謝っていただき、帰っていただいた。このぐらいはしてもいいと思った。悪人だろうか。

 

和菓子は、少しだけ食べた。けれど、食べる度に怒りが蘇るので、友人宅に持ち込み、酒のあてにした。

こういう話をすると「でもあなたも悪いところがあったんじゃないの?」と言われることがあるので、あまり大っぴらには話をしない。事件そのものよりもこういうセカンドレイプ的被害の方がメンタルにくることを私は知っている。

その友人は「私もなぜかわからないけど異物混入食品によく当たるから、同じようなものね! 原因なんてないない、星のもと!」と和菓子を食べながら言ってくれた。すごく好き、と思った。

 

直後は、腹立たしくて仕方がない、だけだったけれど、冷静になった今、考えてみると。

 

ただ「小銭が転がっただけ」で「警察」と言った彼は、相当にストレスがたまっていたのではないだろうか。

それが仕事のせいなのかプライベートのせいなのか、何なのかわからない。ただよっぽど日々の生活では吐き出し切れない何かを抱えていたのだろうなと。

私は弱そうな見た目をしているので、勝てると思われたのだろうなと思う。

幸せそうな顔をしているので、少しぐらい八つ当たりしてもいいだろうなと思われたのかもしれないとも。

 

いい訳ないだろう!

私だって、日々全くストレスがない訳じゃない。辛いことだって酷いことだって、ある。

けれど、それをむやみやたらに表に出すことは誰かにそれを分け与えるということだから、極力しないようにしている。そうしているうちに顔に笑顔が張り付いた。だから私はいつでも「幸せそうな顔をしている人」らしい。

だからなのか、よく八つ当たりされる。少しぐらい、悪く言っても、雑に扱っても、いいんだと思われやすいのだと思う。

そういう扱いに慣れてしまったので、多少のことでは怒らない。拒みもしない。むしろ、受け入れる。笑う。その方がその人と仲良くなれるから。仲良くなれば、もうその人は私を傷付けないから。まぁ、八つ当たりするだけしてすっきりして、どこかへ行ってしまう人もいるけれど。それも、慣れた。

 

独りで歩いていると、未だにフラッシュバックでうまく歩けなくなることがある。

そうなる度に、過去や他人に対する恐怖と、私が「そういう狂人」だという現実を突きつけられて、苦しい。立ち止まり、肺に息を送り、耳を塞いで、「早く殺してくれ」と願う。物凄いストレスだ。

けれど、そういう発作があるという話どころか、病気であることすらリアルでは滅多に打ち明けない。こうした症状で今も苦しんでいるという話は、誰にもしたことがない。せいぜい、眠りが浅い程度の話だけ。

話をしたところで、何の意味もない。私はPTSDだし、過去は変えられないし、記憶は消せないし、治す薬はない。ただ可哀相な人だと思われるだけなら、歯を食い縛って堪えた方がましだ。物凄いストレスだ。

 先日、歯医者で「この年齢でこんなに歯がすり減っているなんて」と驚かれた。身を削って(正確には骨だけど)ストレスに耐えている。自分の中で処理している。社会の中で生きていくために。

 

理不尽に与えられたストレスだからと言って、理不尽に他人になすりつけてもいいと思う人がとても多いように思う。私がそういう目に遭ったのだから、他の人が同じ目に遭ってもおかしくないと。

そういう意識が、ずっと、悪いものを社会の中で循環させている、と思う。

理不尽なストレスが生み出される一方で排出されずにいるから少しずつ溜まり、空気は淀み、その中で生きる人も。

 

私はもう悪いものの餌食になりたくない。だから、そうしたものが社会から取り除ければと願うのだけれど、私にできることはとても少ない。こうして出会った人に、こうした思いを伝えられるシーンに出会った時に、伝えるしかない。

なので、運転手には目いっぱい、説教させていただいた。響いてないとは思うけれど、「売った喧嘩が購入されてしまうことがある」という強烈な経験は、彼の人生のこれからの何かを変えるのではないだろうかと少しだけ期待をしている。

 

理不尽はどう足掻いても自然発生する。だからこそ人的な理不尽が少しでも減れば、と、今日も願う。

飴が砕けて飴つぶて

先日、友人宅に泊まらせてもらった。

とても仲の良い友人で、ぐだぐだと話したり、DVDを観たり、漫画を読んだりなど、とても有意義に過ごさせていただいた。あまりにも楽しくて二連泊してしまったほど。

「この漫画の主人公があなたに似ている」と言われた。「頭が良い!合理的!」と補足してくれたけれど、私は傍から見てこんなにも冷徹な仕事人間なのだろうか、という思いの方が強かった。

魔王の秘書(1) (アース・スターコミックス)

魔王の秘書(1) (アース・スターコミックス)

 

 ちなみに私は眼鏡をかけていない。裸眼。

 

それはさておき、その友人が私の隣でスマホゲームを始めた。

ゲームをする印象のない友人だったのでとても興味があって、何のゲームかを尋ねたら「キャンディークラッシュ」だと教えてくれた。

私は颯爽とiPadを取り出した。

まだキャンディークラッシュが公開されて間もない頃、必死になってプレイした時期があった。ここ何年か全くプレイしていなかったが、進めたデータを消すのは忍びなく、iPadにアプリを残していた。

アプリを起動して友人に見せ、「凄い進んでる!!」という期待通りのリアクションに満足してから、久しぶりにプレイしてみた。なかなかクリアできなくて諦めていたステージ。そう簡単にはクリアできないだろうと思っていたのだけれど、何と一度でクリアできた。驚いた。プレイ人口が増えてレベルが甘くなったのだろうかと邪推するほどだった。

クリアしてしまったせいで楽しくなってしまい、少しの間、二人とも無言でキャンディークラッシュをプレイした。何がクリアできなくて投げ出したのかわからなくなるほど、すいすいとクリアできた。

それから家に帰ってもしている。今日も二時間ぐらいはプレイした。

目が痛くなって、夜、電気も点けずにベッドの中でプレイしながら夫の帰りを待っていたことを思い出した。

 

 

キャンディークラッシュを始めた頃、私は主婦だった。

暗がりの中でiPadの光に照らされる私の姿を帰宅した夫が見つけて、とても驚いていたことを覚えている。その後、「夢中になれることが見つかって良かった」と喜んでくれたことも。

あまりにもハマりすぎて、昼夜問わず、と言っていいぐらい、平日も休日も夫の隣でずっと遊んでいた。夫は嫌な顔せず、優しく寛容に見守ってくれた。一緒に遊んでくれた。

音声をONにしていると、連鎖だか何だかをした時に、上品な紳士らしい声で「Sweets!」という賛美の言葉を投げかけて貰える。パズルゲームの効果音らしくないなぁと思いながら、何となく付けたままにしていたのだけれど、夫がそれを気に入り、喜々として声真似を始めた。

音が流れる度にそれを繰り返すから、パズルどころじゃなくて、とても楽しかった。

 

こうした話をしているのは、感傷に浸って「あの頃に戻りたい」とか言いたい訳ではない。

私は、夫と離れて以来、寂しさらしい寂しさを感じたことがない。

「離婚して独りだったら寂しいでしょう」とかよく言われるけれど、笑い飛ばせるぐらいは寂しくない。 

正直、不思議だった。私は元々とても寂しがりで怖がりで、だからこそ強そうに振る舞って。毎日、夫が隣にいなかったら眠れなかった。一分でも早く帰って来て欲しかった。

今は、独りでだって眠れる。独りの時間を楽しめる。

本を読んだり、文章を書いたり、出掛けたり。何をしていてもずっと心がしっかりとしていて揺るがない。(ストレスフルでハイになったり落ち込んだりはするけれど)

つい、今日まで、それは「文章を自由に書けているからだ」と思っていた。私は書かないと死んでしまう類の人間だから、書いてさえいれば寂しくないのかと。

「私はなんて薄情な人間なんだろうなぁ」と自らにがっかりしていたぐらいだった。

 

声真似に引きずり出された思い出を胸にキャンディークラッシュをしていたら、ふと、何の前触れもなく、私が寂しくないのは夫が私を「人」として愛してくれていたからだと気付いた。

夫との生活を思い返してみると、病める時も健やかなる時も、私は大事にされていた。そのおかげで「人」としての確固たる自信がある。誰に何を言われても何をされても、「でも、私は大丈夫」と動じないでいられるほど。

寂しい、と思う時は人それぞれだと思うけれど、「誰かに認められたい」「愛されたい」という要素が大きいと私は思っている。

私は夫と過ごしたおかげで、常に「認められている」し、「愛されている」と思えるから、だから寂しくないのだと気付いた。

ふとそう気付いて、とても納得して、思えば思うほど深く頷いてしまって、笑って、気付いたら泣いていた。そのぐらい、強烈な気付きだった。砕けた飴のつぶてを喰らっているのかと錯覚するほど、心に甘い痛みが幾度となく走った。

「今から泣くぞ」と思って泣くとすぐに泣き止むことができるけど、「気付いたら泣いていた」という時は、自分でも驚くほど涙が止まらない。多分、一時間ぐらい泣いていたと思う。涙がこぼれて胸が空いたはずなのだけれど、満ち足りた気分だ。

結婚しても寂しさに喘ぐ人がいる中で、独りでも立っていられるほどの愛情をいただけた。

好きなことができないと嘆く人がいる中で、こんなにも自由に筆を走らせることができている。

私は本当に、幸福だと思う。

これまで生きてきてずっと不幸だと思っていた私にここまで思わせてくれたのだから、やっぱりあの人は素晴らしい人だと思う。

二度と会うことはないだろうけれど、私以上に幸福でいてくれたらと願ってやまない。