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底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

結末

こちらで宣言した通り、クライアントAと手を切ってきた。

teihen-writer.hatenablog.com

思った以上に呆気なかった。その日のうちに契約を解除する約束を取り付けることができた。その日すぐに終了というわけにはいかなかったけれど。

業務マニュアルを作成する仕事と一部作業を手伝う仕事だけで終了する流れとなった。私のような立場の低い人間が業務マニュアルを作るというのは何だかおかしな話のような気もするが、これで穏便に手が切れるのであれば安い物だ。ブラックな仕事は避けることができたのだし、良かった。

話をするためにクライアントAの事務所を伺った時、足がとにかく重かった。ビルの廊下はどんよりと曇って見えた。初めて見た時は「廊下が輝いている」と思っていた。ただビルが古く薄汚れてしまっただけなのか、私の目が曇ってしまっただけなのか、どちらなのだろうか。

ドアを開けて、挨拶をして、席に着く。席に着くなり「話とは何ですか?」と切り出される。事前に話があるとメールで伝えていた。私はこうすることで自分が逃げられないようにしたかった。愛想笑いでごまかしてしまうことを終わりにしたかった。

「今後、一切の仕事をお断りさせていただきたいのです」と伝えた。その声は自分で思っているよりも低くこもるような声だった。腕はだらんとしていて、力が入らなかった。目も、うつろだったと思う。その時、クライアントAはどんな顔をしていたのかわからない。私はずっと俯いて、テーブルを眺めていた。顔を見たくなかった。誠実ではない態度かもしれないけれど、顔を見たくなかった。

「なぜ辞めるのか」と聞かれた。「一身上の都合です」と答えた。そして問答が始まった。

「他のところで働くんですか」「病気ですか」「もうどのような形でも働く気はないのですか」たくさんの質問をされた。私はそのほとんどを「一身上の都合」と「プライベート」という言葉でかわした。

こうした問答の後に、クライアントAは「わかりました。そこまで決意が固いのなら」と答えた。

ここしばらくの間、業務上の会話以外、全くしていなかった。以前は、会えばまるで友人のように楽しく話をしていた。2人で歩いていて、同じビルの人から「夫婦ですか?」と間違われたことがあるぐらいだった。そんな私たちの間に流れる気まずい空気に、「離婚を切り出した時に流れる空気は、きっとこういうものなんだろう」なんてことをぼんやりと考えた。

クライアントAは、一切怒らなかった。それどころか、辞めるに至って私にとって都合の良い条件を提示され、私の要求もほぼ飲まれた。私の様子が酷くおかしかったからだろうか。それとも、もしかしたら、会話を録音していたことがばれていたのかもしれない。

かもしれないけれど、もしかしたら、もしかしたら、この人はまだ元に戻れるのではないだろうか。そうすれば、私も、あの白く輝いていた廊下を、世界を、もう一度望めるのではないだろうか。一瞬だけ、そう考えてしまった。

その時にクライアントAは言った。

「寂しい思いをさせてしまいましたね……」

この言葉で私の目は覚めた。

どういう意味で「寂しい」という言葉を選んだのかはわからない。が、これまでのクライアントAの立ち振る舞いを見てきて、大体想像がつく。「会話がなかったこと」「仲良くできなかったこと」が私が寂しくて辛かったと思っていると思っただろう。

そこじゃない。そこじゃないんだ。問題はそこじゃない。仲良くするだけなら簡単なんだ。私があらゆることに置いて目をつぶればいいだけなのだから。なぜわからない?わかっていてわからないふりをしている?今日までこんなにも頑張って働いてきたのに「寂しい」なんてつまらない理由で辞めると思うのか?もし寂しさがあったとしても帰宅すれば夫が埋めてくれる。そこじゃない。私が求めているのはそこじゃない。というよりも、経営者として着目する点がおかしいんじゃないだろうか。おかしくないんだろうか。これが普通なんだろうか。

とにかく、私はこの一言で一気に気持ちが白けた。私が望んでいた白は、こんな白じゃなかったけれど、冷静になれた。

反論することも面倒で、私はその言葉を無視した。返事をしなかった。クライアントAは自分の言ったことに満足したようだった。私も満足したと思ったのだろうか。「それで、あの、在宅の仕事だけでも続けてもらえれば……」隙に付け込むように、そう言った。「無理です」と即答した。私の意思がずれることは、もうなかった。

以前にも書いたが、私の仕事は記事の受注だけではなかった。事務所でも仕事も一部手伝っていた。これがなかなかに膨大な量だった。報酬は時給だった。

その仕事も、最初は簡単な作業だったのが、「あれもできますか?」「これもできますか?」と、やることはどんどん増えていった。クライアントAの役に立ちたかった私は、できることは全部やった。これまでに得てきたありとあらゆるスキルを活用した。私が底辺ネットライターのくせにやたらと事情に詳しいのは、こういう事情だ。

新規事業で一時期一緒に働いていた「すばらしい人」には「それだけやって、それだけしかお金もらっていないの?」と言われたぐらいはたくさんのことをやっていた。「できることなので、いいんです……」私の返事は情けないものだった。

クライアントAが「しない」ではなく、「できない」仕事もたくさんやった。新たに覚えさせられたこともたくさんある。それなのに陰で「あの人には誰でもできる仕事しか頼んでいませんから」「(その仕事は)私がやりました」と吹聴しているのだから、とんでもない奴だ。そのくせ私がその話を聞いてしまったと知ったら「私がそんなことを言うと思いますか!?」「ああ~……悲しいなぁ。こんなにも信頼しているのに、だからこんなにもたくさん仕事を任せているのに、それが伝わっていないなんて」なんて言っていた。怒り狂った時に私本人へ投げた暴言は全て忘れているようだった。あと、たくさんの仕事を任せていたのは、信頼ではなくて面倒による丸投げだと思う。

そんな奴だ。そんな奴だったんだ。思い出した。そのことをよくわかっていたはずじゃあないか。だから手を切ると決めたんじゃあないか。まるで、DV夫の優しさに流される傷だらけ妻だ。私の夫は別にいる。私を守ってくれるすばらしい人がいる。こいつじゃない。少しでも過去のキラキラに手を伸ばそうとしてしまった自分がとても愚かしかった。

ただ、わがままを言って突然辞める私に「これまでの貢献度を考慮して、最後の報酬は計算します。最後はきれいに終わりましょう」と言ってくれた。その言葉に、あの頃のクライアントAの顔が頭をよぎった。どんな顔をしていたのかは最後まで見れなかったけれど。

私と同じように、この人の中でも過去の思い出がキラキラとしているのかもしれない。どんなに怒鳴っても威張っても、心のどこかであの頃を求めていたのかもしれない。こうして私とクライアントAの終わりが決まった。

クライアントAとの縁が切れることになって、全く寂しさを感じない。それどころか、心に溜まっていたヘドロのような物が一気に流れ出てしまったようで、とても体が軽くなってしまった。その軽くなった体に、私はたくさんのビールを流し込んだ。夫は「お疲れ様」と言って乾杯してくれた。ありがたくて泣きそうになった。何も悲しいことなんてないはずなのに、悲しかった。この悲しさの理由に、私は一人では気付けなかっただろう。

私は辞めるに至るまで、クライアントAの愚痴を友人にぼろぼろとこぼしまくってきた。大体の友人は「何それ!酷い」「辞めちゃえ!そんなとこ!」「もっと良い仕事あるよ!」だった。とてもありがたかった。リアルに詳細を打ち明けて、そう言ってもらえるのは、私が間違っているのではないかという不安を払拭できた。助かった。

だけど、一人だけこう言った人がいる。

「今の環境だけで言うと、辞めた方がいいと思う。けど、今までその人のことすごく信頼してきたんでしょう?その時の話もたくさん聞いた。そのあなたの気持ちを考えると、安易に辞めちゃえって言えないし、辞めない気持ちもわかる」

まるで心を見透かされたようだった。さすがにその場で泣くことはできなかったけれど、帰ってから泣いた。

私はどんなにボロボロになってもボコボコになっても、クライアントAのことを信頼していた頃の自分の気持ちを捨てられていなかった。彼に対して抱いていたのは恋でも愛でもないけれど、大切に想う気持ちを自分なりに抱いてきた。絶対に信頼できる人だと信じて、働いてきた。それが、お金とか、そういう事情を前にして簡単に裏切られたことが、辛くて悲しかったのだ。それを友人が汲み取って私に教えてくれた。

どれだけ自分の心の中でクライアントAを完全なる悪として定義付けようとしても、私にはそれができないのだ。この文章に矛盾が感じられたのなら、こうした葛藤のせいだと思う。

結末は、ただ私の人生の中でまた一つ、人との別れが増えただけ。それだけだった。