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底辺ネットライターが思うこと

私が思うことを主観的にひたすら綴る

SNS断ち

日記

私は最近の人らしく、それなりにSNSが生活の一部になっている。

mixiから始まり、ツイッター、インスタグラム、様々なSNSをやってきた。

mixiはすでにやめた。自分の黒歴史を保存しているような気味の悪さに、削除ボタンを押したのは今年のことだ。裁判の証拠資料として役立ってくれたことは、一生恩に着る。

今やっているのは、プライベート名義でツイッター、インスタグラムと、其処當名義でのツイッターになる。

其処當名義のツイッターはパソコンからしかアクセスしないようにしている。スマホからアクセスできるようにしてしまえば、四六時中、頭の中が「其処當あかり」になってしまいそうで少し怖いからだ。

「其処當あかり」は嘘偽りのない私ではあるものの、普段私が見せている私とは全く異なる、心の奥底に深く沈んでいる暗い私だ。元々の私と言ってもいいのかもしれない。今の私が私としている私は私が社会の一員として溶け込んでいくために、明るく朗らかであるようにと意識して作り上げた人格だ。すでにこれが馴染んでしまっていて、普段から「其処當あかり」の顔をしろと言われてももうできなくなってしまった。果たしてどちらが本性と言えるのだろうか。怒りや酒に任せて出てくる顔が本性であるとするならば、どちらも私ではない。日本酒を飲むかワインを飲むかで出てくる顔が違うのに、やれそれが本性だ悪人だと言われてはたまらない。

「其処當あかり」という名前を付けてからというもの、普段の生活にも彼女が顔を見せるようになった。「其処當あかり」が現れる前までは言わなかったようなことをぽろりと口に出すようになった。哲学めいたこととか、嘲り笑われそうなポエムめいたこととか、そうしたことを、ぽろりと口からこぼすようになった。それは主に夫の前でだけなので別段生活に支障があるわけではないけれど、私は私の中の「其処當あかり」の存在に驚かされることが度々ある。

もし、スマホのツイッターに「其処當あかり」を入れて四六時中「其処當あかり」になってしまおうものなら、私はきっと友人の前でもそうしたことを口からこぼしてしまうのだろう。今まで苦労して築いてきたものを失ってしまうかもしれない。そう思うと、「其処當あかり」はパソコンの中の人間でいるべきだと考えるようになった。

しかし、パソコンを付けて「其処當あかり」になるということが、何とも心地良い。

スマホでプライベート名義のツイッターなどに触れていると、疲れている時に余計に疲れがどっと増す時がある。どうでもいいような、例えばポケモンGOを遊んでいますというようなことをつぶやいてみれば、その後ろ辺りに批判するようなつぶやきが飛ぶ。私には当ててこない。いわゆる空リプというやつなのだろうか。それをされると私は言い返すことすら叶わず、もやもやとした鬱屈とした気持ちを抱えることになる。そしてそのまま何事もなかったかのようにタイムラインを眺めては「今日も一日疲れちゃった!おやすみなさい★」などと当たりさわりのないことをつぶやいて一日を終わらせる。それはまるで義理のようで義務であり、それをしなければいけないような気持ちでずっといた。

「其処當あかり」のツイッターは酷く穏やかだ。義理もなければ義務もなく、なのに優しさや好意がある。時に向けられる敵意ですら穏やかだ。言い返すことのできる敵意は、できない敵意よりも優しい。

私が悩んでいる時にダイレクトメールでアドバイスなどをくれる方がいるのだけれど、その方も返信を急いてこない。数日の間、家を空けて、「そういえば返事をするのを忘れていた」と思って返信をしても、何とも穏やかに返してくれる。プライベート名義のツイッターであれば、ものの数時間返信をしなかっただけで遅いだの何だのと言われることもある。ああ、何と心地良い場所なんだろうかと感じた。

恐らく、私の根本自体が「其処當あかり」であることから、こうして文学めいて哲学めいたことを書き散らしていることが極自然なのだ。こちらの方が、私らしい私なのだ。

パンケーキの写真を撮影してツイッターにアップすることもそれなりに楽しくはあるけれど、本音を言えば、差し出されたパンケーキにはさっさとかぶりつきたい。どの向きから写真を撮れば見栄えよく映るかとか、「あなたの分も写真に入るように撮影しよう」とか言われてテーブル全体を見栄えよくセッティングしたりとか、楽しくないわけではないけれど、私は一刻も早くパンケーキにナイフを入れて、口の中に詰め込みたい気持ちの方が圧倒的に大きい。そういうことをしている時間はとても楽しいし、それが生活する上でメインの私の人格だし、今更これを失う勇気などないのだけれども、ツイッターの中のマウンティング合戦に辟易してしまうことがある。

それが今だ。

そうして私は、プライベート名義のSNSアカウントをしばらく動かさないことにした。しばらくツイッターを休みますと宣言して、スマホからアプリを消してしまった。「ツイッターを休みます」と宣言する人をたまに見かけて「だから何なんだ」とひそかに突っ込んでいたが、確かに宣言しておかないと何かと心配されそうな気がして不安になる。「ツイッターを休みます」宣言はSNSで生きる人間には必要なものだと感じた。例え有名人でなくとも。

今日一日、プライベート名義でのSNSがない状態で生活をしてみたが、困ることは特にない。連絡が必要な人は電話で連絡をくれるだろう。ふとした愚痴をつぶやけないことだけ、少し困惑した。爪が割れた、とかそうしたしょうもない愚痴をツイッターに垂れ流すことで誰かが優しい返信をくれたり、笑ってくれたり、それは楽しい時間だった。

けれど、私は愚痴めいたことを垂れ流した後に、罪悪感のような、後悔の念のような、とにかくどす黒い気持ちに襲われることがよくある。

それを見た人が「またこの人愚痴ばっかり言ってる」とか、「自虐風自慢なんじゃないの?」とか、そうしたことを考えてくすくすと笑われているような気持ちに陥ることはある。頻繁に。

ほんの少し笑い合える時間を失うことと引き換えに、私はこうしたどす黒い気持ちを抱えずに済むようになった。これはプラスなのかマイナスなのか、これからこの生活を重ねていかないとわからない。

友人は、好きだ。暗い影のない、明るい私自身も嫌いじゃない。最初は明るく振舞っていただけだったかもしれないけれど、今となってはそうした明るい上っ面の私も私だ。SNSだって、楽しいと思う。ただ、疲れてしまう時がある。

今は少し、疲れないで済む生き方を模索したい。

しばらくは「其処當あかり」のツイッター以外は断とうと思う。そちらの方もほとんどログインしないけれど。

ほんの少しの生活の変化だけれど、すでに生活の中に変化を感じたように、これからも何かを感じられるのではないかと期待している。