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底辺ネットライターが思うこと

私が思うことを主観的にひたすら綴る

もっと尖っていこう

日記

先日、初めて記事を削除した。

が、削除した記事がまだどこかで読めるらしい。消した後にも関わらず「読み返した」というコメントをいただいたので驚いた。

今でもなぜかアクセス数が伸びているので、どこかにリンクは落ちているんだろうなと思っていたけれど、まさかまだ読める状態で残っているとは。一度ネットに落とした情報はなかなか削除できないとは聞くけれど、本当なんだなぁと実感した。

今となっては、わざわざ消すほどでもなかったかな、と思えているので、別に構わないのだけれど。

私はこのブログを、自分の自由に文章を書ける媒体として始めた。ただひたすら感情をぶつける、思ったことを書きつづる。

なので、「読み手」というものを意識したことがない。「読み手を意識したら面白くない」というのが始まりだった。「こういうのが好きな人は読んでください。読んでくれたのなら、ありがとうございます」というスタンスで好き勝手に書いている。このスタンスは最初から変わらない。

先日のブログを消してしまったのは、あまりにも私の不安を煽るコメントが多かったから。離婚や毒嫁といった、心のどこかにある不安を指摘されるようなコメントが並んだ。その上、アクセスはぐんぐん伸びていく。これ以上同じようなことを言われたら変になってしまいそうだ!と思って、削除してしまった。

ブログはその人の日記でもある。日記は一方的に主観で書く物だと思う。例え夫婦の話を書いたって、そこに夫の意見はない。私は楽しいことがあったなぁと思って日記を書いた。それを誰かと共有して楽しんでもらえれば何よりというスタンスで、さぁ面白い作品を楽しんでくださいと思って書いたつもりもない。

今の時代、ブログはマネタイズを目指さなくても常に「読み手」を意識して書かなければいけないものだろうか。

「読み手」を意識して書かない限り、「炎上耐性」を付けなければいけないものなのだろうか。

そうなんだろうな。と、今回の件を通して思った。

私は今後もブログで読み手を意識することはないだろう。夫婦であれ何であれ、話を書く時も私は主観でしか書かないし、それをエンターテイメント作品に昇華させようというつもりはない。わざわざ作品にするぐらいなら、最初から作品を書く。

自由に書けないのであれば、仕事で文章を書いているのと同じで楽しくない。

そういえば、最初の頃に「人に嫌われてもいいぐらいの気持ちで文章を書くといいよ」というようなコメントをいただいたことを思い出した。そうだ。人に嫌われても自由に文章が書きたくて感情を発露させたのに、また萎縮してしまって何がしたいんだろう私は。

主観で読み手を考えずに物事を綴るからこそ、個人ブログは面白いと私は思う。誰かを傷付けるような内容であれば話は別になるだろうけれど。

だから私は、炎上耐性を付けていかないといけない。最近は、私の文章を好きだと言ってくださる方ばかりに囲まれてひよってしまっていた。私の文章は尖っていてなんぼなのに、丸くなってしまったら面白くないじゃないか。もっと尖っていこう。

そして、例えどんな弱点直撃手斧コメントをもらったとしても、うろたえないほどの炎上耐性を。むしろ炎上して喜べるぐらいになりたい。

その中で、本当に私に共感してくれる人がいたら嬉しいじゃないか。私は何で忘れていたんだろうな。

うっかりと思い出してしまったので、その感情を発露させてこのブログを書き殴っている。