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底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

「死ね」と「殺せ」の間

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最初にブログ記事が問題になった時から傍観していたけれど、こうなったかという感想。

驚いたのは、今まで散々謝罪は一切しない、何をどう指摘されようと罵詈雑言を用いて反論するスタイルを貫いてきたのに、番組降板という不利益を受けてあっさりと謝罪をしたこと。

この人は自分が不利益を被るまで、炎上していることが「おいしい」と思っていたのだなぁと。だからこそ、何があっても燃料投下を繰り返してきたのだなぁと。

いつかのしくじり先生で「炎上ブログは儲けます!」と言っていた女性芸能人がいたけれど、これはきっと本当のことなのだなぁと。

悲しくなる。

長谷川さんは「日本死ね!」という表現が許されたのだから「自堕落な患者を殺せ!」という表現は炎上の手段として許されるはずだという持論を展開していた。けれど私は、「死ね」と「殺せ」は似て非なる言葉だと思う。

 

「死ね」は丁寧に言うと「死んでください」になる。

相手に行動を促す言葉であり、その言葉を受けた相手は「死にたくないです」とお断りすることができる。

自分のことを死んでほしいぐらい恨んでいる人が世の中にいるということは恐ろしいことかもしれない。けれど、それを言った相手一人のみが行動に移さない限り、その人の命は守られる。そこで終わる話。

それに加えて、「日本死ね」の人は「日本」という「国」に対して「死ね」という言葉を掛けている。人に対して言葉を掛けていない。この差がどうしてわからなかったのだろう。

 

「殺せ」は丁寧に言うと「殺しましょう」になる。

発言者が周囲に、特定の人へ殺意を抱くことを促している。

殺意を抱いて殺しにかかってくる人がいたとしたら、逃げるしかない。これはものすごく怖い。

実際に行動する人がいなかったとしても、当事者にとって「自分に対して殺意を抱いている人がいる」「殺意を抱いている人が増えた」と考えるようになる。どこの誰が自分に対して殺意を抱いているかわからず、人の心に怯えるようになる。

「本当に殺意を覚えた人にいつ殺されるかわからない」

「こんな風に笑顔で話しているけれど、腹の中ではどう思っているんだろうか」

そんな風に考えなければいけない生活の恐ろしさを、この人は想像できないのだろうか。

 

私はあまり頭がよろしくないので、難しいことはわからない。

長谷川さんが懸念されている医療費圧迫問題も実際にあるのだろう。けれど、私にはどうすればこの問題が解決できるのかわからない。何が最善なのかわからない。私が最善策を考えたとしても、きっと誰かに策の弱点を突かれて終わってしまうだろう。

ただ、自分に殺意を抱いている人がこの世にいたら怖いということと、どんな状況であっても人を殺すことに正義を見い出してはいけないということだけ、わかる。

言葉で仕事をしている長谷川さんがどうしてそんな簡単なことに気付かず、そんな言葉を使ってしまったんだろう。

長谷川さんに悪意がないことは記事を読めばわかる。しかし、「殺せ」なんて言葉を悪意なく使う方が恐ろしくないだろうか。それが正義だと考えている方が恐ろしくはないだろうか。

そんなに長く生きてきたわけではないけれど、この世の中に絶対的な正義なんてないんだろうということはわかる。人それぞれ正しいと信じているものが違うのだから仕方がない。

そんな中で自分の思想こそが絶対的な正義だと信じて「殺せ」なんて言葉を使ってしまうことは、とても恐ろしいことではないだろうか。

それと似た思想が、相模原のあの殺人事件のような悲劇を起こしてしまったのではないだろうか。

 

「殺せ」という言葉に着目すると、「言葉狩り」だと言われるかもしれない。

けれど、その「殺せ」という強烈な言葉を強烈な言葉だと理解しながらブログタイトルに用いてブログを炎上させてお金を稼ごうとしていたのだから、その点に関しては責められて然るべきではないだろうか。

今回の騒動で、憤りを感じている人、誰かに殺意を抱かれたのではないかと怯えている人がたくさんいるだろう。

私はそのことがとても悲しい。

そんなことを言わなくても、別の伝え方が、広め方があったのではないだろうか。

せめて「ばーか」ぐらいに留めておけば良かったのではないだろうか。