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底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

「辛いことを思い出してしまう人がいるから公表しない」という違和感

私は原爆三世だ。

原爆が落とされた時、祖母は爆心地のすぐ近くにいた。本当に奇跡的な状況のおかげで助かったようだ。祖母は一瞬にして多くを失い、踏みつけたくないモノを踏みつけながら生活をするための場所に帰ったという。

祖母は多くを語らない。祖母が原爆の被害者であることや、その時の話や後の生活の凄惨さは母から伝え聞いたものだ。

なぜ祖母が語らないのか。

「辛いことを思い出したくない」からだ。

娘である母もそれらに関する話は少ししか聞いたことがないと言っていた。娘に話すことすら躊躇われるほど、辛く苦しい出来事だったからなのだろう。

私もそれなりに紆余曲折のある波乱万丈な人生を歩んできている自覚があるが、祖母には敵わない。ほんの少しだけ母から伝え聞いた原爆投下時とその後の話は、ここに書くのも躊躇われるほど恐ろしいものだった。

原爆投下という大事件は「辛く悲しい出来事だった」から、「忘れてはならない、繰り返してはならない出来事」だとして、慰霊碑が建てられている。

あらゆる資料が公開され、当事者ではない人でも、戦後に産まれた人でも、その凄惨さを知ることができる。それを知ることで悲劇を繰り返さないようにと教育される。

私は祖母から直接、原爆に関する話を聞いたことがない。語ってもらいたいとも思わない。もう80歳を過ぎた祖母が、わざわざ辛いことを思い出す必要なんてないから。今穏やかに暮らしている時間を大切にしてほしいから。

だから私は、原爆三世でありながら、それに関してのことはそうでない人と同じぐらいの知識しかない。それに母からのほんの少しの伝聞が加わった程度。

けれど、それだけでわかる。祖母は慰霊碑を見ると辛いことを思い出すだろうということを。

それでもそれが人の生活に必要なこととされている。悲劇を二度と繰り返さないための必要なこととして語り継がれていく。

 

「歴史から学んで悲劇を防止する」ことの大切さを多くの人が知っている。それなのになぜ、いじめによって自殺した少女、葛西りまさんの写真を公開することがふさわしくないということになるのだろうか。私は納得がいかない。

www3.nhk.or.jp

実行委員会のメンバーでもある黒石市の高樋憲市長は、「入賞作品は来月イベント会場に掲示される。イベントを盛り上げるという趣旨を踏まえると、亡くなった方が写っているのはふさわしくないと考えた」と話しています

高樋憲市長の言いたいことが全く理解できない訳ではない。祭りを明るく盛り上げたいがために開催したコンテストに悲しみが付いて回るのは、コンセプトと異なるものになってしまう。

しかしもし、彼女が難病での闘病の末に死んでいたら?不慮の事故で死んでいたら?

その場合に於いても「ふさわしくない」という理由で入賞を取り下げただろうか。彼女の死を美談にして、祭りを盛り上げるために利用したのではと、邪推してしまう。

遺族が「入賞を取り消してくれ」と言うのであればそれは正しい判断だっただろう。しかし、遺族はそんなことを望んではいなかった。

いじめを苦にして自殺した少女、葛西りまさんのお父様である葛西剛さん。彼は入賞の取り消しを受けて、自ら写真を公開するという行動に出た。

私は今朝、剛さんがりまさんの写真が入賞した時の喜びと、取り消された時の悲しみを語っているインタビュー映像を見た。そして、このブログを書こうと思った。

www3.nhk.or.jp

遺族が「いじめをなくすきっかけにしてほしい」とこの写真を公開しました。

写真に映る彼女は活き活きとした笑顔をしていて、まさかこの後、自殺を選ぶなんて思えないほどキラキラと輝いている。

こんなに輝いている少女ですら死を選ぶ「いじめ」。

昔からあって、未だになくならない犯罪。今もどこかで誰かが誰かをいじめているのだろう。子どもか、大人か、はたまた動物か。

いじめは「辛く悲しい出来事」であり、「忘れてはならない、繰り返してはならない出来事」であり、恐ろしい犯罪でもある。

それなのに、いじめという犯罪に於いては被害者の方が腫物のように扱われることがほとんどだ。関係した大人たちはそれらの証拠をなるべく表に出さずに体裁を取り繕うために必死になる。そして何も教訓として残さず、事件は人々の心から消えていく。

本当にそれでいいのだろうか。

二十年近く前に、小学校の給食にO-157という菌が混入して集団食中毒事件が起こったことがあった。このことは大きく報道された。

私がこの事件の報道で心に焼き付いているのは、号泣して謝罪していたその小学校の校長の姿だ。

校長が菌を混入させたわけではない。調理をしたのも校長ではない。けれど校長は「自分の管理責任だ」と号泣して謝罪の言葉を繰り返していた。

子どもながらに「この人はちゃんとした大人なんだ」と感じたのを覚えている。

その後、給食の調理過程に食中毒を起こさないためのあらゆるルールやシステムが追加された。悲劇に学び、二度と繰り返さないようにと教訓を汲み取った結果だ。

このように悲劇から悲劇を繰り返さないための教訓を汲み取り、ルール化、システム化していくことは人が健やかに生きていくためにとても大切なことだ。それなのに、多くの人は体裁や保身を優先して、そうしたことを放棄してはいないだろうか。

「いじめを受けて亡くなった」という前提で彼女の写真を見ると、見た人が「いじめ」という辛いことを考えるきっかけになるだろう。

しかし、それは悪い現象なのか?

私はそうは思わない。

むしろ遺族の方がおっしゃる通り、「いじめとは繰り返してはならないものだ」と学ぶきっかけになるのではないだろうか。

写真の入賞を取り消すではなく、入賞という形は残したまま夏祭りとは別の場所で使うといった手段は取れなかったのだろうか。

「辛いことを思い出してしまう人がいるような出来事」だからこそそれを周知し、根絶に務めること。それが人の上に立つ人は取り組むべきことではないだろうか。

もちろん、写真を見ても何も感じない、学ばない人もいるだろう。そういう人は彼女の写真を見たところで苦痛に感じない。嫌いな芸能人を見た程度の感覚で彼女のことを罵る程度だろう。そんな人間は放っておくしかない。この人たちに配慮する必要はない。

いじめは辛いものだと、繰り返してはならないものだということを多くの人が心に刻むことによって、この世はより良くなっていくのではないだろうか。

 

人は歴史から学ぶことを少しずつ忘れているように思う。今目の前にある体裁を守ることを最優先にして、人が健やかに生きていく環境を作ることを放棄しているように感じることが多くなった。

この先にあるものは何なのだろうか。何か築かれるものはあるのだろうか。