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底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

泣く日々

2017年が始まってから、数えきれないぐらい泣いた。

朝目覚めては泣き、人と話しては泣き、本を読んでは登場人物に自分を重ねて泣き、夜眠る前に泣き。瞼はすっかり大きく腫れあがってしまって、たった二週間程度でめっきり老け込んでしまった。

姉には「老け顔ぶす」と言われた。この状況でなかなかなことを言ってくる相変わらずな人だな、と思った。事実、物凄く老けたので、腹も立たない。もともと美醜にそこまで執着もないので、何とかしなくちゃとも思えない。ただ、姉がそれに付け加えて「顔のマッサージぐらいしなさいよ」と言ってくるあたり、ただの悪口でもないのかもしれないな、と思える。私も姉も成長しているのかもしれない。

修羅場の渦中でも次から次に辛いことは起こる。薄らとした信頼の崩壊や、人との心のすれ違いや、命が果ててしまうことや。

誰のせいでもないから、誰も責められない。誰かにお前のせいだと責められても、性根が腐りきっているせいかその通りだと思えず、自己嫌悪もできない。

だから、とにかく泣く。ひたすらに泣く。

ここ数週間、泣く時は何も考えない。ただただ辛いと思いながら泣く。そしてその中で、私を大切にしてくれる人たちの言葉や優しさを思い出してようやく泣き止む。立ち上がる。生活をして、仕事をして、生きることに努める。

どんなに辛くても生きなければならない。恐ろしいことに、心が死んだとしても生き続けなければならない。心臓が動くのをやめるまで。

人は、自殺はいけませんと言う。なのに心が死のうがお構いなしだ。目に見えないから。血が流れないから。人は理性の中で目に見えない物を尊ぶ文化を築き上げてきたくせに、目に見えない物に対してとんと無頓着だ。

修羅場で落ち込んでいる渦中で、先日、仕事でも揉めた。更に落ち込んだ。と言うより、疲れ切った。

そんな私に、家族や友人が優しい言葉をかけてくれた。

「揉めた過程がどちらのせいにしろ、揉めることで敵を作ってしまうにしろ、今は自分がやりたい仕事以外は断った方がいいよ」と、ジャッジを下す以前の問題だとして、私を労わってくれた。本当にありがたいと思った。

揉めた過程は当事者にしかわからない。どちらが悪いのか、なんて終わった話をジャッジする必要も意味もない。誰が誰にどれだけ愚痴をこぼしたって、自己正当化でしかない。人は自分の都合で善と悪を分ける。それはもちろん、私も含めて。全ての人にとって正しいことなんてこの世界にはほとんど存在していない。

それをわかりながら、辛いと泣く私を労わってくれる人の存在は、本当に愛しくて大切だと思う。

私は今のこの状況に、ただ疲れた、落ち込んだと言うだけだ。他人の感情で流れていくこの環境で、とにかく精一杯、自分の大切な物を守るだけ。

きっとここしばらくの間に起こったあらゆる修羅場に関わってきた人たちは「あの女は頭がどうかしている」とそこかしこで私を話題にしていることだろう。

私の頭がどうかしているというところは否定しない。私のような面倒な人間を扱える人間の方が珍しいのだと思う。

けれど、私が面倒な人間だと知りつつ、友人として付き合いを続けてくれる人たちがいる。対等に意見をぶつけ合って仕事をしてくれる人もいる。

今も落ち込んでいる真っ最中だけれど、私を大事に扱ってくれているクライアントが私に仕事を依頼してきてくれた。

1月、企業にとっては多忙を極めるこの時期に、私のために時間を割いて仕事を作ってくれた。報酬もとびきりはずんでくれた。その上で「これで大丈夫ですか?」とまで聞いてくれた。泣きながら了承のメールを返した。

あらゆる揉め事の渦中で落ち込んでいること、仕事を増やしたいことは年初めにそのクライアントには伝えてはいたけれど、こうした形で私を慰めようとしてくれることが本当に嬉しい。頑張りたい。そうした気持ちにしてくれることも「報酬」と思える。

そうした気持ちになって初めて「会社のために頑張ります!」労働ができるようになるのだと思う。けれど、昨今の労働環境問題の多くは、こうした労働をそうした気持ちになる以前に求めてくる。それが美徳であり、当然であり、評価の対象だと言う。私はそれに頷くことはできない。

文章の値段はとても決め難い。1文字1円であれもしてくれこれもしてくれ、そのぐらいやって当然だろう!という人もいる。そこまで頑張って初めて評価できるんだという人もいる。

それで構わないライターもいるだろうから、その在り方は否定しない。その在り方について来てくれる人に仕事を頼めばいいと思う。

けれど、物の値段を決めるのは売る人だから、私が1円では売れませんと言う物を、1円で売れと値切られても、売れない。それで私のことを評価できないというのならば、評価してくれなくてもいい。

私は文章を書くのが好きだけれど、好きだから、もう誰かに媚びたり安売りしたりしたくない。何のために安定してブラックな案件をもらえる以前の仕事を辞めたのかわからなくなってしまう。

もしそうしなければ私の文章が売れなくなるのなら、売らなくていい。ライターでなくなってもいい。選ばなければ仕事はたくさんある。生きていくことができる。そうした生活の傍らで好きな文章を自分のために書いた方がよっぽど良い。

信頼関係は誰とでも築ける訳ではない。心を擦り合わせられる人と心を擦り合わせて、初めて足場を作ることができる。そしてそこから少しずつ、家のような、暖かい関係ができあがっていく。それが災害でなくなってしまうこともあるけれど。だからこそ、どんな災害にも負けないような家にしていかなければならない。頑張れば頑張るほど、潰れた時に辛い思いをするけれど、それでも足掻かなければいけない。幸せだと思いたければ。

今年が始まってからたくさん泣いたけれど、現在進行形で毎日泣いているけれど、少しずつ自分の中の正義感や決意が固まっていくのを感じている。何かがぶつかってくる度に、確固たる物になっていく。何が善で何が悪なのかわからなくとも、私の人生にとって良い物なのかどうか、それだけはわかる。

そしてそれを応援してくれる人がいる。励ましてくれる人がいる。評価してくれる人がいる。

どれだけ辛くても、そんな少しの声だけで私は笑っている。生きている。ちょろい女だ。

どれだけちょろいと思われても、私はとても恵まれていると思えている。こんな状況でもそう思えることが、とても幸せなことなのではないかとすら思えている。

今の修羅場はなかなか現実の出来事として語るには問題が大き過ぎるので、いつかフィクションの小説として書いてみようと考えている。

もしそれが完成する日までお付き合いいただければありがたい限りです。