底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

暑い

夏が来たということを突き付けるような暑さが続く毎日、元気でお過ごしでしょうか。

私はというと、あっという間に汗で体の至るところがかぶれています。痒いだけでも辛いのに、痛い。生まれついてこうした肌質なのですが、きっと、前世で余程悪いことをしたのではないかと思います。

大した災害にも遭わず、頻繁に事件に見舞われるといっても特に大きな怪我をすることもないくせに、何をのたまっているのかと思われるかもしれません。自分でも、そう思う時があります。こうしたことに見舞われる人よりまし、ああした体質の人よりもまし。そうしたまし探しに明け暮れた日々もありました。それは、「私はなんて不幸なんだ」と小説や詩を書き散らした思春期を過ぎ、社会人になってからでした。社会不適合者である私が社会に馴染むためには、そのようにして「まし」と「普通」に近いことを探して自らに当てはめて、社会に居てもおかしくない人間だと思い込む必要があったのです。普通に近付いたのか、麻痺したのか、私はあっという間に社会人っぽくなりましたが、様々な事件に見舞われて社会不適合者に戻りました。結局、私はどうすれば良かったのでしょうか。そう思う時があります。今となっては、あれで良かったのだと思います。そうでなければ今、平成の世の終わりを前にして、文章を書き散らすことはなかったでしょう。私は不幸だと世を恨んでいたに違いありません。あの時どれだけ何があってもその選択をしたことで、私は今、思うままに書き綴ることができています。そうして今、社会人として社会に身を置くことができています。社会に椅子があるということは、何と嬉しいことだと、日々感じずにはいられません。

さて、今日、本屋に立ち寄りました。それなりに大きな本屋で、入り口付近には、流行りの本を置くコーナーがあります。そこは立ち読みができるようになっています。今日立ち寄って、女性の自己啓発本が増えたと感じました。決して揶揄している訳ではなく、そう感じたのです。メイクの本も、ベーシックなやり方を記した本だけでなく、「このようになりたいのならこうしましょう」という本をよく見かけるようになりました。「このように」というのは、見た目だけのことではなく、「このように生きたいのであれば」という意味合いが含まれています。だから私は、これらのメイクハウツー本も、自己啓発の類に含まれるのではないかと思うのです。ひと昔前であれば、自己啓発本を読んでいると小馬鹿にされることがありました。ここまでカジュアルにポピュラーになれば、そうしたこともなくなるのではないでしょうか。とはいえ、私はこうした本を人前で堂々と読む度胸は、まだありません。自尊心を保つため、常々人を小馬鹿にしたいと願っている輩がいますから、そうした輩に目を付けられないためにも、私はまだブックカバーを取ることができません。

さて、そういう輩の話がしたいのではないのです。今日立ち寄った本屋で、そうした女性向け自己啓発の類の本を手に取り、目次を開きました。その話がしたいのです。私は自己啓発やビジネス書は、目次を熟読することから始めるようにしています。本全体が見渡せること、私の疑問への答えが書かれているかを手っ取り早く探すためです。目次で興味が持てなければ、その本はそれで閉じます。興味の持てる項目があれば、その頁を開きます。そこで、感銘を受けるか否かで、買うかどうかを決めます。

手に取った本には「隙の作り方」というような項目がありました。私はすぐに、その頁を開きました。

隙を作りたいのではありません。隙をなくしたいのです。何故かと言うと、私が頻繁に被害に遭う理由を「隙」のせいにして、私を責め立てる人がとても多いからです。「では隙をなくすから、何が悪いのか教えてほしい」と聞くと、大体の人は「服」について言及します。「あなたの着ている服が悪い」と。そう言われ、私はずっと「被害に遭わない服」「普通の人になれる服」を探し続けました。けれど、そんなものはこの世に存在していませんでした。何を着ていようと、手を出す輩は手を出すのです。何を意図したのかわからないようなプリントTシャツも「萌え」になるし、女性教師を思わせるようなきちんとした格好をしても「エロい」となるのです。男のような恰好をすればと思われるかもしれません。私にもそう考えていた時期がありました。けれど他の女性に、それは最も駄目だと言われました。「手を出しても許される空気が醸し出される服装」なのだそうです。世の中には多種多様な嗜好があるのです。四面楚歌です。

私は疲れました。何故、好きでもない服にこんなにお金をつぎ込まなければならないのだろう。そもそも、よくよく思い出してみれば、同じ職場にいて、同じような格好をしていても何もない女性もいました。結局、服ではなく、「私」なのです。「私」の何かが何かを呼んでいるのです。

私は疲れました。大っぴらに嘆くことが許されない程度の不幸を定期的に受け続け、私は疲れました。人は、目隠しをされて、顔に水滴を落とされ続けると発狂すると言います。私はそれに近い人生を、送ってきているのだと思います。だからこそとっくに発狂していて、どれが自分の本当の思いなのかもわからなくなっているのです。

疲れた私は、開き直りました。好きな服を着るようになりました。けれど、周りの反応は変わりません。手を出す輩は手を出すし、出さない人は出さない。結局、多くの人が原因だと考える「服」なんてものは、何の問題でもなかったのです。なんという無駄な投資だったのか、とも思いますが、私はこれから、女性に向かって「お前の服装が悪いから手を出されるのだ」と言う人に対して、「手を出す奴が悪い」と胸を張って言うことができる分、投資の価値があったのではないかとも思います。そう、罪は加害の中にしかなく、被害の中には在り得ないのです。被害の中にあるのは、責められるような罪ではなく、これからその人自身が生きていくための教訓に近いものしかありません。

私にも、被害の罪を詫びいっていた時期がありました。あれほどに辛いことはありません。被害の傷に耐えながら、その傷に塩を塗りこむような。塩をすり込んで清めなければならないほど、汚れたもののように思えるのです。今でも、被害に遭うと、被害の罪を詫び、償おうとしてしまう癖があります。私はそれを克服しなければいけません。どれだけその癖が反発しても、普通の人になりたいのであれば、私はそれは悪い癖だと自らに教え続けなければいけません。それを知ることができただけ、幾分か成長したように思います。

さて、被害についての話がしたいのではありません。「隙」について話がしたいのです。

その本には、「隙とは人間味だ」と書かれていました。私は意表を突かれました。

「人前で思いっきり笑うような、気取らない人間味こそ「隙」だ」

私は、とても納得しました。ようやく「隙とは何か」の最適解を得た気がしました。

同時に絶望もしました。私が「隙」を削ぎ落すには、こうした人間味を削ぎ落すということです。人間味を削ぎ落とすということは、人間関係を変えてしまうということです。

私はよく笑います。人が好きだからです。気取る余裕なんてありません。人間味たっぷりに笑います。それが私の落ち度だというのであれば、私は、人を好きであることをやめなければいけません。削ぎ落した先に被害のない人生が待っているという確約のないまま、私はそれをすることはできません。もし確約されたとしても、私はそれをすることはできません。私は、人がとても好きです。どうして、好きなものを捨てなければならないのでしょうか。

これは、本の批判ではありません。被害の原因を「隙」なんていうもののせいにする人の批判です。「隙」というものが人間味なのであれば、それは、絶対に責められるべきものではないでしょう。

そもそも、「隙」があろうがなかろうが、やっちゃいけないことはやっちゃいけません。全裸の女の人が目の前にいても「カモン」と言われるまで手を出しちゃいけません。服を着てくれとお願いするか、さっさとその場を去るか、説教するか。この三択しかありません。据え膳だと思い込んでかぶりつくことは許されないのです。そもそもそうした関係性のない中で全裸の女性が目の前にいたらそれは全裸の女性に罪があるので通報したら逮捕してもらえるでしょう。第四の選択肢です。もしそうした選択ができずに加害に及んでしまうのであれば、それは加害者と化したその人の責任であり、全裸の女性に責任はないのです。

このことは、実は小学校で教わります。幼稚園かもしれません。居心地の悪さや自己防衛や保身のためにそんな当たり前のことを忘れて被害を責め立て加害を守る人のために、人間味を削ぎ落すなんて愚かなことはできません。私はこれからも、今までのような理不尽に耐えていかなければいけません。それも一つの人生だと割り切り始めました。私は私のままでしか生きられないのだから、その被害の数も私だと思い、反撃手段を蓄えていくしかないのでしょう。

「減るもんでないしいいだろう」論もよく耳にします。こうのたまえる輩は、目で見えるものしか見ていないのだろうと思います。

怪我もなく、金銭的な損失もない場合でも、減ります。「被害を知らない世界」を失うのです。「安心して暮らせる世界」を失うのです。電車の中で体を触られただけで、もうその人は、「電車の中では痴漢に遭うかもしれない」と常々周りを警戒するようになります。心がすり減ります。私にも、電車に乗る度に体が震える時期がありました。今でも満員電車では過呼吸になることがあります。私は「安心して乗れる電車」を痴漢たちのせいで失いました。

「被害」とされているものには、そうされる理由があることを忘れてはいけません。

今回のブログはただの日記なのですが、恐らく、一般的な思案事ではないのだろうと思います。最近になってようやく、自分の思考の癖のどこが一般的ではないのか、少しずつわかるようになってきました。「私って人とは違うから」と偉ぶりたい訳ではなく、冷静に人との差異を見つめられるようになってきましたということです。何かにつけて事件だ法律だ人生だと考えあぐねるこの思考は、あまり一般的ではないのでしょう。けれど私は、その答えを見つけなければ、心の置き所がなく、ずっと不安で仕方がありません。だから、四六時中探し続けているのです。

恐らく、この疑問には答えがありません。私がこの先、心の底から安心できる世界など存在していないのでしょう。わかっていながら探すなんて、愚かで滑稽でしょう。それもまた一つ、私の人間味なのではないかと思います。