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「男性を紹介してもらう」という人生初イベントの感想

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そんなこんなで、男性を紹介してもらうというイベントを体験してきた。

ここひと月、ふた月の間で、色々な人から、「イイ女として生きる」「女を楽しむ」ということを人から語られることが多くあり、感銘を受けることが多かった。「“女”として生きていいのか」と、許しを得た気持ちだった。

こうして生きる女性、こうして生きる女性を好む男性は、はたから見ていて素敵な人ばかりで、「こういう人たちとずっと仲良くしていきたい」と思った。
だから、「女性として生きることの楽しみ」「女性としての自信」をごっそりと置いてきてしまったせいですっぽりと空いてしまった穴を埋めて、そうしたキラキラと輝く人たちと共に在れるようにと祈りにも似た思いで、色々とチャレンジを始めていた。

インターネットが普及して、多くの人の意見が飛び交うようになって、人がどんどんカテゴライズされていく。
「カテゴライズ」という言葉を使うと冷たいようにも思えるけれど、「住み分け」と思えば、住み心地の良い社会を作る上で、必要なことのようにも思える。分かれた者同士がいがみ合うようなことさえなければ、「VS」ではなく「&」の関係を丁寧に築いていけるのであれば、ひとつ、人が「野獣」ではなく「人」として生きていくために。

私は「女」であり、「性犯罪被害者」であり、「精神病患者」であり、「メンヘラ」であり、「ライター」であり、「自営業者」であり、「人」であり、と、あらゆるカテゴリーを持っている。
それらすべてはある視点から見れば大きなカテゴリーで、ある視点から見れば小さなカテゴリーで。
結局、すべてのカテゴリーは特大のカテゴリーによって包括される。結局、同じところに住んでいる。同じところに住んでいるから、よりよく住むために、カテゴライズして住み分けようと人が動いているのが、今の社会なんだろうな、と思う。

そのために、色々、はっきりと言っていこうと、そこで分かれる人とは別れよう、と、思った。
なんて、人によっては「そんなこと当たり前」なことに、最近気付いた。

 

またもや話が逸れたけれど、こういうイベントが発生したのは、そういうチャレンジを始めていた影響もあるのかもしれない、と思う。「引き寄せの法則」は在る、と、私は思っている。思考は、現実になる。

しかしながら、私はまだこの試みを始めたばかりで、男性の前でどこまで「女ぶる」のが正しいのか、全くわからなかった。

私にとって「女ぶる」ということは「女という性を差し出す」ということで、それはとても居心地が悪く、恐ろしいことだった。他の女性がそれを上手にしているのを、尊敬すらしていた。

メイクもしている。スカートも穿いている。髪の毛も伸ばしている。けれど、そのどれもが「処世術」に近いもので。私にとって「女ぶる」とは違うと思えていることだからできていて。

全く意識せず行っても相手に失礼だし、意識し過ぎていても引かれそうだし、何をどうするべきなのか全くわからなかった。「ちょうどいい“女”感」というものが、まだ私の中にないんだと思う。

そんなことをしばらく考えた結果、「身だしなみを整えてスカートを穿いて行ったら大丈夫」という雑な結論に辿り着いた。とても遠回りしたと思う。

 

そうして迎えた当日。内心、とても緊張しながら、そうでないように振る舞っていた。

「どんな人だろう」というときめきを期待するような緊張感もあるけれど、「もしまた何か問題が発生したら」という不安もあった。

紹介者が間にいる以上、無茶はしないだろうとは思うけれど、もし、もしまた何かあったら。それか、本当にお見合い然とした会で、すぐにそういう話になったらどうしよう、なんてことも考えた。まだもう少し、仕事を本気で頑張る季節を続けたい。

私が先に店に到着して座って待っていて、男性は紹介者と共にやってきた。

とても社交的な紹介者だったので、似た印象の人を想像していたら、全く正反対の人だった。

挨拶は、目を合わせてくれなかった。けれど、嫌な感じは一切なくて、「ああ、照れてるんだな」と思った。

社会人らしく名刺交換から始めて、紹介者を交えて雑談した。

何を話したかあまり覚えていない。主に紹介者を介して話していた気がする。緊張していたのもあって、ずっとお酒を飲んでいた。楽しかった、という記憶はある。

しばらくして、紹介者が去り、大人の出会いらしく2人でバーに移動することになった。

正直、それなりに緊張していた。

出会ったばかりですぐすぐ男女の関係になる、というのは、私はできなくて。そういう流れになったら私はどうするのか。恐怖を前に屈してしまうのか。屈しながらも逃げることができるのか。頭の中はそういうことでいっぱいだった。

そういう時の私は、とにかく饒舌になる。相手があまり話さない人だったのもあって、とにかく自分の話ばっかりしていた。主に仕事とか、文章のこととか。
異性として会っているはずなのに、どうして女性として振る舞えないのか、自分の出来の悪さに驚いた。

けれど、相手は真剣に聞いてくれて、徐々に心を開いてくれて、相槌を打つだけではなくて自分の仕事の話もしてくれて。相手も好きなことを仕事にしている人だから、共感してくれたのかもしれない。少しずつ目が合うことも多くなって、体をこちらに向けて楽しそうに話をしてくれるようになって。

最終的には「休日は何をしてますか?」という会話をするところまで辿り着いた。

「誘われなければ出かけないし、出かけない時はずっと書いている」という色気のない返事に嫌な顔ひとつせず、「それだけ好きなことがあって仕事にできているって羨ましい」と笑ってくれた。すごく良い人だな、と思った。

終電が迫り、席を立とうとした私を相手は引き留めた。

「呼び止めるとは、まさか」と邪推した直後に、
「連絡先を」と言われた。そんな当たり前のこと、すっかり忘れていた。

つつがなく連絡先を交換して、「じゃあ、また近いうちに」と言って、駅で別れた。

 

電車の中で、私は、衝撃の余韻に浸っていた。

この人は、最初から最後まで1ミリたりとも私に触れなかった。

連絡先を聞いてくれて「近いうちに」と言ってくれたということは、私に興味を持たなかった訳ではないんだろう。なのに私に全く触れなかった。このことは、私にとって非常に新鮮で衝撃的だった。

ケン・ウィルバーは「男は常にテストステロン衝動性(Kill or Fuck)のベースを持っている」と言っている。これはベース、本能の話であって、現代社会を生きる良識を持つ人たちはそれを当然のように理性でコントロールしているのだろう。けれど、あらゆる目に遭ってきた私にとって、「抑えきれないもの」なのだという認識が強くあった。

万物の歴史

万物の歴史

 

もしかすると、私に対する異性としての興味が極小だったからかもしれない。けれど、極小の興味を爆発させて無茶をする輩がいる中で、とにもかくにも私は。

あまりにも衝撃だったので、この日のイベント結果を心待ちにしてくれている友人にすぐLINEで報告した。

「それが普通だよ」と言われて、もうひと度衝撃を受けた。

その上で「いい経験ができて良かったね」と言われて、泣きそうになった。

異性として出会って、興味を持ってくれた上で、普通に関係を築いてくれた。それが私にとって、嬉しくて仕方がないほどの出来事だった。

もしかすると、これが普通の男性の「興味を持つ女性」に対する振る舞いなのだとしたら、気付いていないだけで、私を「人」として見ながらも「女性」として意識してくれている人はいるのかもしれない。と、思えて、その日から少しだけ周りの男性を見る目が変わった。

ものすごくときめいた、とか、運命の出会い、とか、そういうものではなかった。けれど、「やっぱり、良い男性は居るんだ」と思わせてくれた出会いだった。

 

その後も、どうでもいい雑談メッセージを送ってくれて、「この人は私の心と仲良くしようとしてくれている」と、妙に感動した。きっと、これが当たり前のことなのだろう。「私は今、普通の人っぽいことをしている」と思うと、嬉しい。

女性として大事にされたことがない訳ではない。むしろ、前の夫は、とにもかくにも私を女としても人としてもめちゃくちゃ大事に丁寧に扱ってくれた人だったな、と、今も思う。だからこそ、男性を信じたいと願えるのだと思うほどに。こんなに素晴らしい人とうまくいかなかったのだから、私はやっぱり、男性と上手に関係を築けないのかもしれない、と思うほどに。

この人と、なのかはわからない。実際に男女として関係を構築するとなったとして、うまくやれるかどうかはわからない。

けれど、私はきっとこれから先、どこかで恋ができるのだろうと思えた。それだけで、このイベントは大成功だったと思う。