底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

憧れと執着

三が日はとうに過ぎましたが、新年、あけましておめでとうございます。

2016年から始めたこのブログ。あの頃は怒りと悲しみと悔しさだけをその腹に蓄えて、それでも「私は世界を変えることのできないちっぽけな人間だから」と夫の庇護に依存して愚痴を垂れ流すことしかできないしょうもない人間でした。

今、2019年を迎えて。

私は相も変わらずちっぽけだし、世界を変えることは出来ないし、怒りも悲しみも悔しさも未だ腹に蓄えているし、人として、何も変わっていません。

あのころと違うのは、すべてを声に出しているということだけです。

ちっぽけで、何も成し遂げる力がなく、何も変えられず、ただ朽ちていくしかない程度の人間なのだから、思いっきり暴れたって何ひとつびくともしやしないでしょう。だったら勝手にさせてもらいますと、真剣に、そう思います。馬鹿にされてもいいと思えるほど。

そうして文章を紡ぐと、凝り固まっていた脳の中心が暖かくなって、そこから何かがどっとあふれて体中を巡って倦怠感を押し流して、体がふわりと軽くなり、それがとても心地好く、以前よりももっと文章を書くことが好きになりました。

好きなことを好きだと思ったまま仕事にできている。どんな辛い目に遭ったとしても、苦しみに溺れる私を引き上げてくれる人たちがいてくれる。こんなに幸せなこと、なかなかないと思います。本当に、ありがとう。こういうことが当たり前の社会になるように、尽力して参ります。私にできることなんて少ないけれど、何もしないより絶対にいい。

 

最近、「憧れている女性を待ち受けにするとその人に近付ける」という話を耳にしました。

これは「どんな顔になりたいか」という話題で出てきた話で、その時、私には「こんな顔になりたい」という理想がないのだということを思い知りました。

芸能人を見ていて、綺麗だな、可愛いな、と思っても、「同じ顔になりたい」と思ったことはなくて。

私の三つ子の魂は、美醜にあまり執着がありません。

美しさに執着しないことを悪事のように扱われ、蔑まれ、何をどうすれば蔑まれないのかと考えあぐね、何をしても痛い目に遭い、被害の罪の罰を受けて気が狂い、正気に戻りを繰り返し、「私は私であればいい」という答えに辿り着いて、今、もう何を言われても揺るいでやるものか、とようやく思えています。

私はこれから未来永劫、誰に馬鹿にされても「私であること」に執着していこうと思っています。そうじゃないと幸せになれない生き物だから。

ただ、「私は私であればいい」という意識を、怠惰につなげてはならないとは思います。

「私は私であればいいから、どんな私になってもこれまでと同じ通りに扱って」と言いたくありません。これまで育んできた大事にしてきたものを守っていくための美しさへの執着を持ち続けていくことが、今というスタート地点から進めていける「私が私である」ということだと思っています。

 

改めてどんな女性になりたいかと考えてみて、桃井かおりという人の名前を思い出しました。

いつのことか忘れたけれど、私がまだ子どもの頃、桃井かおりが何かの賞をもらったときに「やっと時代が私に追いついたのね」といったようなコメントを述べました。

多くの人が無難に「ありがとうございます」「嬉しいです」と話す社会で、そんなことをてらいもなく胸を張って言っている大人を見たのは初めてで、胸が高鳴りました。

そういう人になりたい。自らの信念や立ち振る舞いが「評価されないことが理解できない」ぐらい自信を持つ人になりたい。それだけ自信を持てるということは、突き詰めて考えて、確信しないとできないことだから。

2019年、そういう女性になれるようにと願って、ひとつずつ、駒を進めていこうと思います。

成し遂げられなくても死ぬだけだから、大丈夫。そう腹をくくったら、怖いものなんて何もありませんでした。今、生きることがとても楽しい。

今年もよろしくお願いいたします。